久渡寺 歴史

久渡寺

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/09/17 15:47 UTC 版)

歴史

「大日本寺院総覧」によると、久渡寺の前身は南津軽郡大鰐村阿闍羅三千坊の一つである興福寺で円智法印により小沢村(現在の弘前市小沢)に移され、小沢山観音院救度寺と改称される。後に津軽藩津軽為信により山号を護国山に改称されたとする。

「日本地名歴史大系」では開山開基不詳としながらも、「新選陸奥国志」(明治9年(1876年))や「弘藩明治一統誌」では開山を円智、中興を寛海と記しているとする。

正徳元年(1711年)の寺社領分限帳によれば、小沢村で開基されたとある。

元和5年(1619年)、2代目藩主津軽信枚より救度寺別当の円知坊に黒印寺領宛行状(現在、弘前市立博物館所蔵)が与えられて、小沢村と湯口村(現在の弘前市湯口)の2村に寺領20石が与えられる。

寛永11年(1634年)に3代目藩主津軽信義より久渡寺宛に小沢村と湯口村2村に改めて100石給する黒印寺領宛行状が与えられ、寛永21年(1644年)に藩主信義より観音院宛で50石加増の黒印知行加増状が発給される。

明治30年(1897年)頃より王志羅講(大白羅講)が始まったとされる。

境内

境内には熊野社白山堂がある。

幽霊画

先述のとおり、円山応挙作と伝わる幽霊画「返魂香(はんごんこう)(反魂香)之図」がある[1]。公開すると雨が降るので雨乞いに効験があると伝承されている。

2021年、弘前市文化財審議委員の調査で、円山応挙の真筆であること、絵のモデルが弘前藩家老森岡主膳元徳が亡くした妾「國(くに)」である可能性が高いことが判明した[1]

オシラ講

青森県をはじめ東北地方では、の神、農業の神、の神[2][3]として、オシラ様という存在が信仰されている。

久渡寺では、毎年5月15日16日の両日(かつては旧暦4月に行われた[4])に「オシラ講[4]大白羅講王志羅講とも)」と呼ばれる参拝行事が行われる。

各家庭や村で祭られている桑の木で作られた男女一対のオシラ様像を各自持参し、本堂御朱印を押してもらう。これを「位を上げる」といい[5]、毎年お参りするとオシラ様の位が上がるという伝承もある[6]

オシラ様にきらびやかな衣装を着せて祭壇に飾ったあと、護摩にかざした大幣でオシラ様と参拝者をお祓いする。

昭和30年代ごろまでは、この護摩祈祷が済むと、境内にいるイタコ津軽三十三観音御詠歌とオシラ祭文読誦をした[5][4]

1999年、「久渡寺のオシラ講の習俗」の名称で記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財に選択された[7]

アクセス


  1. ^ a b 久渡寺の幽霊画は家老の妾がモデル/弘前 東奥日報、2021年5月22日閲覧。
  2. ^ 柳田國男遠野物語』聚綪堂、1910年、14頁。 
  3. ^ 柳田國男「遠野物語拾遺」『遠野物語』(増補版)郷土研究社、1935年、179-188頁。 
  4. ^ a b c 久渡寺のオシラ講の習俗 - 弘前市
  5. ^ a b 久渡寺のオシラ講の習俗 - 文化庁広報誌 ぶんかる
  6. ^ 久渡寺のオシラ講の習俗 - 青森県庁ウェブサイト
  7. ^ 久渡寺のオシラ講の習俗 - 文化遺産オンライン


「久渡寺」の続きの解説一覧



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「久渡寺」の関連用語

久渡寺のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



久渡寺のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの久渡寺 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS