一条天皇
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/17 14:15 UTC 版)
后妃・皇子女
- 皇后:藤原定子(977年 - 1000年:号中宮、のち皇后宮) - 関白藤原道隆長女
- 皇后:藤原彰子(988年 - 1074年:号中宮) - 左大臣藤原道長長女
- 女御:藤原義子(974年 - 1053年) - 内大臣藤原公季長女
- 女御:藤原元子(979年? - ?) - 右大臣藤原顕光長女、のち源頼定室
- 女御:藤原尊子(984年 - 1022年) - 関白藤原道兼女、のち藤原通任室
- 御匣殿(985年? - 1002年) - 藤原道隆四女(皇后定子の同母妹)
追号・異名
在位中の里内裏の名称により「一条院」と追号された。崩御後しばらくは「大宮院」とも呼ばれていた[16]。明治以後「〜院」の追号は廃止され「一条天皇」となる。
在位中の元号
陵・霊廟
陵(みささぎ)は、宮内庁により京都府京都市右京区竜安寺朱山 の龍安寺内にある圓融寺北陵(円融寺北陵:えんゆうじのきたのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は円丘。
天皇は生前、父円融院の隣に土葬されることを望み、近臣の熟知するところであったが、道長は故院を荼毘に付してからそのことを思い出し、遺骨は東山の円成寺に安置された。希望どおり円融陵(北山の朱山にある火葬塚か)の側に葬られたのは、九年も経った寛仁4年(1020年)6月16日のことであった。
なお、一条天皇の大喪儀における葬法の誤りについて論じた論文があり、それによれば淳和天皇以降、在位中の天皇の葬儀は土葬、太上天皇の葬儀は火葬という慣例があったが、退位直後に次代の天皇から太上天皇としての称号奉上を受けずに崩御した醍醐天皇は天皇の例として土葬が行われた。一条天皇の場合は天皇の意思だけでなく醍醐天皇の先例に倣えば土葬で行われるべきであるが、道長以下の廷臣は太上天皇の例に倣って火葬を行ったことになる。この誤りが本当に勘違いによるものか意図的なものかは不明であるが、次に在位中に崩御した息子の後一条天皇の際には崩御の事実を隠して譲位の儀式を行った上で太上天皇として火葬にされ、それ以後在位中の天皇の崩御そのものが隠される慣例が確立されていることから、一条天皇の大喪儀における誤りは天皇の大喪儀における観念の変化(在位中の天皇の崩御ならびそれを前提とした土葬の否定)の過渡期で発生した出来事とする評価がされている[17]。
また皇居では、皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。
関連作品
- 映画
- テレビドラマ
- テレビアニメ
注釈
出典
- ^ 倉本 2003, p. 1.
- ^ a b c 倉本 2003, p. 202.
- ^ 「尊卑分脉」注記
- ^ 倉本 2003, p. 4.
- ^ 末松剛「即位式における摂関と母后の登壇」(『日本史研究』447号、1999年)
- ^ a b 倉本 2003, p. 14.
- ^ 倉本 2003, p. 235.
- ^ 倉本 2003, p. 236.
- ^ 『御堂関白記』寛弘8年5月23日条
- ^ 『栄花物語』「いはかげ」の巻
- ^ 『花園天皇宸記』正和二年(1313)2月3日条
- ^ 『台記』
- ^ 『薩戒記』
- ^ 天武天皇から今上天皇までの系譜
- ^ 天武天皇【今上天皇の直系祖先】
- ^ 『小右記』
- ^ 谷川愛「平安時代における天皇・太上天皇の喪葬儀礼」『国史学』169号、1999年/所収:倉本一宏 編『王朝時代の実像1 王朝再読』臨川書店
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