ロシアの農奴制 世界資本主義のなかでのロシア農奴制

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ロシアの農奴制

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/19 04:37 UTC 版)

世界資本主義のなかでのロシア農奴制

しばしば「大航海時代の幕開け」と称される15世紀末以降、エルベ川以東のドイツ中央ヨーロッパ、そしてロシアを含む東ヨーロッパでは、上述してきたように、封建領主が所領への緊縛と人格的な隷属とを強制した農奴による賦役労働によってみずから直営農場を経営し、主として西欧市場に向けた穀物生産を強化していった(穀物以外では木材が重要な輸出商品となった)。プロイセンではこれをグーツヘルシャフト(農場領主制)と呼び、他方、フリードリヒ・エンゲルスによって「再版農奴制」と名づけられた[注釈 9]。すなわち、11世紀以降しだいに農奴の人格的解放が進んでいき、17世紀以降の市民革命でその解放が完成する西ヨーロッパに対し、東ヨーロッパにおいては16世紀から18世紀にかけての比較的新しい時期(近世)において、むしろ農奴制が確立し、強化されていったのであり、これを従来の歴史学では概して東欧・ロシアにおける「封建反動」「逆コース」の結果として解釈してきたのである。

しかし、イマニュエル・ウォーラーステインらの「世界システム論」によれば、グローバル資本主義のなかで「中核」となった西欧市場に対し、ロシアを含む東ヨーロッパは農産物など一次産品を供給する「周辺」として従属を余儀なくされたのであり、その結果、農業生産力を増大させていく目的で農奴制が強化されたものであると解釈しなおされた。つまり、先進・後進の二者関係ではなく、いわば同じコインの表裏というとらえ方である。ウォーラーステインは、『近代世界システム 1730-1840s -大西洋革命の時代-』において、18世紀においてロシア帝国産のはなお重要な輸出品となっていたが、イギリスで新しい技術が開発され、ロシアの鉄輸出がふるわなくなったのち新たな主要輸出品として小麦が鉄にとってかわったという事実に注目し、ロシアの主要相手国がイングランドおよびスコットランドアメリカ合衆国である(18世紀末以降はフランスもこれに加わる)ことから、特に、スコットランドとアメリカ(イギリスにとっての半辺境)は、1750年代以降、ロシアがヨーロッパを中核とする世界システムに組み込まれたことでその地位を高めることが可能になったと指摘している[35]。このことについてウォーラーステインは、合衆国経済の繁栄は「ロシア農民の果てしない肉体労働と熟練の不十分な労働を利用し得えたから」であるというアメリカの歴史家アルフレッド・クロスビー1965年の著作からの一節を引用し[36]、また、ロシアの場合は、後世の歴史家がつとに指摘するような、悪名高い「後進性」をむしろ保障し、あるいは、それを促進するようなやり方で資本主義的世界経済に編入されていったと分析した[37]。さらにウォーラーステンは、ロシアは、インド亜大陸やオスマン帝国、西アフリカなど、ロシアとほぼ同時に資本主義的世界経済に編入された他地域と比較すれば、なおも総じて高い国際的地位を享受してはいたが、しかし、最終的にこのことは、ロシア人をしてロシア革命を引き起こせざるを得ない力をロシア社会にもたらしたと結論づけている[37]


注釈

  1. ^ 東ローマ皇帝キプチャク汗をさす称号であった「ツァーリ」を自称するようになったのもイヴァン3世が始まりである。ロシア唯一の君主となったモスクワ大公は、それまでの独立諸公国の君主であった者を貴族としてその支配体制に編入していったが、ここでは、貴族ですら大公の「奴隷」を自称した。栗生沢(2002)p.105
  2. ^ 1粒のライ麦の種からわずか3ないし4粒ほどの収穫しか得られなかったという。土肥(2002)pp.182-183
  3. ^ シベリアに流されたラジーシチェフは、イルクーツク日本からの漂流民大黒屋光太夫と会見している。
  4. ^ しかし、フランス革命とそれにつづくナポレオン戦争のため、ロシアは対仏大同盟に参加し、イギリス陣営にもどることを余儀なくされた。パーヴェル1世自身も、ナポレオン戦争期の1801年に近衛隊のクーデターによって暗殺された。
  5. ^ ニコライ1世に呼び出されたプーシキンは、デカブリストの乱のときに首都にいたらどうしたかと皇帝に尋ねられたのに対し、反徒の仲間に加わっていただろうと正直に答えたが、皇帝はプーシキンの流刑を解いた。土肥(2002)p.219
  6. ^ 農奴の不動産購入権については、あくまでも領主の承諾を前提条件としていた。倉持(1994)p.155
  7. ^ 1851年統計では、領主(貴族所有)農民男子が約1099万人、国有地農民男子が約960万人、御料地(帝室領)農民男子が約127万人、さらに領主の家内奴隷としてはたらく下僕が53万人いた。それぞれ、男性の人口の40.4パーセント、35.3パーセント、4.7パーセント、1.9パーセントを占めた。土肥(1994)pp.190-191
  8. ^ 政府に対して買戻金の返済義務を負ったかつての農奴は「一時的義務負担農民」と呼ばれた。かれらは49年賦を課せられたが、これを支払うことができず、結局1907年に全額廃止されている。岩間他(1979)pp.315-316
  9. ^ プロイセンでは1807年ハインリヒ・フリードリヒ・フォン・シュタインによってなされ、シュタイン失脚後はカール・アウグスト・フォン・ハルデンベルクによって引き継がれた諸改革(「シュタイン・ハルデンベルクの改革」)によって農奴の土地緊縛や経済外的強制は終わりを告げた。それ以後の農業経営は一般にユンカー経営といわれる。

出典

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s 相田(1975)pp.408-412
  2. ^ a b 栗生沢(2002)pp.104-106
  3. ^ a b 栗生沢(2002)p.110
  4. ^ a b c 栗生沢(2002)pp.116-119
  5. ^ a b c d e f g h i j 『ラルース 図説 世界人物百科III』(2005)pp.247-250
  6. ^ a b c d 栗生沢&土肥(2002)pp.146-150
  7. ^ 土肥(1996)
  8. ^ a b c d e f 土肥(2002)pp.164-167
  9. ^ a b c d 土肥(2002)pp.182-185
  10. ^ a b c d e f g h 土肥(2009)pp.45-46
  11. ^ a b c d e 土肥(1994)pp.76-77
  12. ^ 土肥(2002)pp.188-189
  13. ^ a b c d e f g ウォーラーステイン(1997)pp.202-203
  14. ^ a b 土肥(2002)pp.189-191
  15. ^ a b c d 土肥(1994)pp.83-88
  16. ^ ウォーラーステイン(1997)p.203。原出典はLongworth(1979)
  17. ^ a b c d 『ラルース 図説 世界人物百科II』(2004)pp.422-427
  18. ^ 鳥山(1968)pp.314-316
  19. ^ ウォーラーステイン(1997)pp.167-168。原出典はRegemoter(1971)
  20. ^ a b c 土肥(2002)pp.197-200
  21. ^ a b c 外川「デカブリストの乱」(2004)
  22. ^ 倉持(1994)pp.171-172
  23. ^ 和田(2004)pp.219-220
  24. ^ a b 倉持(1994)pp.174-175
  25. ^ 外川「ニコライ(1世)」(2004)
  26. ^ a b 倉持(2001)pp.154-157
  27. ^ a b c d e f g 鳥山(1968)pp.328-332
  28. ^ 松田(1990)p.45
  29. ^ 鈴木(1994)pp.202-203
  30. ^ a b c 栗生沢(2010)pp.92-94
  31. ^ 土肥(2007)p.211
  32. ^ 中野京子『名画で読み解く ロマノフ家12の物語』光文社、2014年、163頁。ISBN 978-4-334-03811-3 
  33. ^ a b 『世界史を読む事典』(1994)p.117
  34. ^ a b 松田(1990)pp.51-54
  35. ^ ウォーラーステイン(1997)p.163, pp.167-168
  36. ^ ウォーラーステイン(1997)pp.167-168。原出典はCrosby(1965)
  37. ^ a b ウォーラーステイン(1997)pp.203-204


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