ベルリンの壁
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ベルリンの壁の建設
1961年7月6日にフルシチョフがウルブリヒトに、「東西ベルリンの境界閉鎖」の決定を伝えた[27]。8月3日にフルシチョフとウルブリヒトはモスクワで細目の詰めを行った。この時にソ連と東ドイツとの平和条約を結ぶ件については、壁の建設が終わってからとして、フルシチョフは「西ベルリンと西ドイツを結ぶ地上ルートも航空ルートも妨害する如何なる行動を取ることを望まない」と述べて、ウルブリヒトは「難民流出に比べれば二次的な問題だ」として同意した。また実行に当たっては全ての作戦が厳密に東ベルリンの内側で行わなければならないとして、「1ミリでもはみ出してはならない」と釘を刺した。そして8月12日(土曜日)から13日(日曜日)にかけての夜間に実行することで決まった[41]。
5日、ワルシャワ条約機構首脳会談最終日に、フルシチョフが
- 東西ドイツ間に存在する国境と同程度に浸透不能な境界を設置する。
- ベルリン市内の境界を含むドイツ民主共和国の国境に西側諸国の国境に存在するものと同程度の管理を実行する。
と述べると、これを加盟諸国は異論なく受け入れ、自国の軍隊をソ連軍支援のために移動させることに同意した。しかし東ドイツへの経済的保証については加盟各国は西側とも貿易関係があったため、西側の経済的報復を恐れて同意には至らず、フルシチョフは憤然とした。そして加盟国からなぜ米国の軍事的反応をもっと心配しないのだ、との声があり、フルシチョフは「ケネディはライト級だ」と答えた[27]。実は、この時にフルシチョフは6月3-4日のケネディとのウイーン首脳会談でのケネディの言動やその後の7月25日の演説を検討しながら、感触としてケネディのスタンスは、ソ連や東ドイツがどのような行動を取ろうと、それがソ連圏内に限定される限り、そして西ベルリンへのアクセス権を妨害しない限りアメリカは干渉しないというもの、と考えていた[42]。
ウルブリヒトは東ベルリンに戻り、境界閉鎖そして壁の建設の準備の仕上げに入った。総指揮は党書記エーリッヒ・ホーネッカーであった。
この時、ベルリンで西へ逃れる難民の数は週1万人に達し、1日で2000人を超す日もあった[43]。8月4日、東ベルリンを管理するソ連軍政官は東ベルリンに住みながら西ベルリンに働きに出て行く人々に対して、氏名を登録して家賃と光熱費を東側通貨のドイツマルクで支払うように命じた。この週末の難民流出者は3268人に上った[44]。その後も流出者総数は8日に1741人、9日に1926人、10日に1709人、11日に1532人に上った。人民警察内部でも越境亡命者が後を絶たず、1959年で55人、1960年で61人、1961年はこの8月までで40人の流出が記録されている[45]。
8月10日、イワン・コーネフ元帥が東ドイツ駐留ソ連軍の総司令官として派遣された。第二次大戦でのソ連邦英雄であり、ワルシャワ条約機構の初代司令官であり、フルシチョフが見込んでの派遣であった[46]。
8月11日、東ドイツ人民議会は「ベルリンにおける報復主義的状況に対処するために東ドイツがとろうとする如何なる手段をも承認する」とした決議を採択する[47]。この時点では議員もその具体的内容は伝えられておらず、壁の建設を知っていたのは軍のトップと社会主義統一党(SED)のウルブリヒト第一書記周辺だけで、政治局委員や国家保安局(シュタージ)幹部でも知らされていなかった。それほどに機密保持が厳重であったがために、西側各国及び情報機関も感知できず、アメリカCIAが東側に配置した諜報員からの情報でも壁の建設は全く入っていなかった。この間は西側情報機関は、東側が現状への打開策を打ち出すことは十分予想はしていたが、その内容は予測出来なかった。まして壁の建設は想像してもまず不可能という判断で思いも寄らなかった。西ドイツ連邦情報局には少なくとも複数の情報から、ソ連がウルブリヒトの裁量に任せて何かの行動に出ること、そして地区境界線を封鎖されそうであること、柵を築くのに適した軽量な資材が蓄えられていること、作業の開始が分からないこと等の情報は入っていた。その情報は少数の党幹部だけが知っていた[48]。
東ベルリンに支局を置いた唯一の西側通信社であるロイター通信のアダム・ケレット=ロング記者は、たまたまこの人民議会の謎めいた決議について、党の宣伝担当責任者であったホルスト・ジンダーマン(後の東ドイツ首相)に聞くと、「この週末にベルリンを離れることを、私はしない」という答えが返ってきた。彼はそれから市内を取材して駅での警官の多さを見てから、事務所に戻り、「東ドイツは西ベルリンへの難民流出に関して、この週末に行動に出るだろう」という記事を世界中の新聞社に配信した[49][注 8]。
国境封鎖そして有刺鉄線
1961年8月12日は土曜日でいつもの休日であった。西ベルリン市長ヴィリー・ブラントは、社会民主党(SPD)の党首でもあり、9月に総選挙が行われるので、その選挙遊説でバイエルン州ニュルンベルクに出かけ、アデナウアー首相は同じようにリューベックに遊説に出ていた。マリーエンフェルデ難民収容所は、この日も多くの難民が押し寄せ、その数は最終的に2662人になった[50]。そして夜になってブラントは遊説先のニュルンベルクから夜行列車でキールに向かった[51]。オリンピックスタジアムに近い将校専用クラブでは、この夜にダンスパーティーが開かれ、西側外交団や軍関係者が参加していた[52]。
午後4時に政治局会議が開かれ、ウルブリヒトから説明があったが討議はなく、したがって異議は無かった。会議後ウルブリヒトは指令書に署名し、ホーネッカーに執行を命じた。それからウルブリヒトは目立たないように、ベルリン郊外の迎賓館に行き、政府高官を集めた園遊会を夕方開いた。そして夜10時に参集した高官を一同に集めて、ウルブリヒトは「東西ベルリン間は今から3時間以内に閉鎖される。保安部隊にこの行動を私は命じた。まだ開いたままの境界を今後適切な管理のもとに置くための行動である」、「ついては、この命令書に閣僚諸君は署名してもらいたい」と語った。閣僚たちはこの時初めて壁の建設計画を知った[53]。
数十台のトラックが数百のコンクリート柱を東ベルリンパンコウ地区の警察営舎の備蓄場に集めていた。東ベルリン郊外のホーエンシェーンハウゼンの国家保安省の広大な敷地に、東ドイツ中から数百人の警察官が集まっていた。彼らは事前に角材4本を組み合わせた木製の障害物を作った。これに釘や留め金を打ち込み、有刺鉄線を張るためである。東側は、三重の包囲線を敷いていた[54]。
- 第一の包囲線は、国境警察隊、予備警察隊、警察学校生徒、労働者階級戦闘団で構成されており、国境線に有刺鉄線を張り、コンクリート柱を立てて第一の障壁を仕上げるのを援助する。
- 第二の包囲線は、正規軍で構成されており、緊急事態が発生した場合は直ちに前進して最前線部隊を支援する。1945年7月の4か国協定では、東ドイツ軍は4ヵ国の許可がないと東ベルリンには入れないことになっており、これは協定違反であった。
- 第三の包囲線は、ソ連軍で構成されており、東ドイツ軍が総崩れになった場合は進出することになっていた。
13日午前1時、東ドイツ警察隊本部は、二つの指令を発した。1時5分にブランデンブルク門に国境警備隊が現れた。1時11分にロイター通信のアダム・ケレット=ロングのオフィスにワルシャワ条約機構加盟諸国の「西ベルリン全領域の周囲に確実な保護手段と効果的管理を構築する」旨の声明が届き、彼は急ぎ車を走らせてブランデンブルク門に向かったが、途中で警官に止められ、境界は閉鎖された旨を伝えられた。すぐにそこを離れて支局に戻り、「東西の境界線は本日、日付が改まると同時に閉ざされた」と世界中に配信した[55]。この時に東ドイツ政府は東西ベルリン間の68の道すべてを遮断し、有刺鉄線で最初の「壁」の建設を開始し始めていた。午前1時30分、東ドイツ当局は全ての公的輸送を停止した。東西ベルリンを結ぶフリードリッヒ通り駅では、西ベルリンから来た全列車の乗客の降車を許さず、各駅で列車の線路を破壊して有刺鉄線を張り拡げていった[56]。その時西側3ヵ国の兵士はまだ寝入ったままであった。
イギリス特使団政治顧問バーナード・レドウィッジは、将校専用クラブのパーティーから遅くに帰宅して寝る準備に入った時に、英軍憲兵隊から電話で列車の深夜運行の中止、通信の遮断、検問所での道路封鎖の報告を受けた。急ぎスタジアム近くのオフィスに出向き、ロンドンに電話し、至急電を送った。これが最初の正式な通知であった。レドヴィッジはこの作戦にそれほど驚いておらず、「絶対に何かあるとは感じていたが、誰も推測出来なかった。情報源からは報告は無かった」と後年のインタビューで答えている[57]。
西ベルリン駐在アメリカ公使アラン・ライトナーは、午前2時に境界閉鎖の第一報を受ける。部下のスマイサーとトリンカが指示を受けて偵察に出向き、車でポツダム広場から東ベルリンに入ることが許可されて、約1時間東側を回り、ブランデンブルク門から西ベルリンに戻った。スマイサーの目撃情報からライトナーはソ連軍がこの作戦に直接役割を果たしていないことで、アメリカにとって軍事的脅威でないと考える一方で、東ドイツの軍隊を東ベルリンに入れることを禁止している4ヵ国協定に違反していることも念頭に置いた。午前11時にラスク国務長官に最初の詳細な報告を打電した。「東ベルリン住民が西ベルリンへ入ることは妨げられた」、「東の経済的損失と、社会主義陣営の威信を失う難民流出に対処する措置である」と述べて、夜に次の電報を打電した時にはソ連軍の動きにも言及し、直接の介入は無いが、かなりの規模で動員したことは東ドイツ軍の信頼度について疑念を持っていることも付記し、また西側の軍関係者及び文民公務員は東へ自由に出入りしていることも付け加えた[58]。
ほぼ午前2時すぎから、各地区に配置した労働者階級戦闘団から準備完了の連絡が相次ぎ、午前3時に警察本部は内務省への第1回目の報告を行い、その後1時間ごとに報告を続けた。3時25分にUPI通信が速報を配信した[59]。午前4時、ブラントの乗った列車はキールに向かっていたが、途中のハノーファーに到着後に連絡が入り、急ぎ同地で下車しタクシーに乗り空港に向かった。午前4時30分にアデナウアー首相は首都ボン近くの自宅で就寝中に起こされ、状況を知らされた[注 9]。ブラントが急ぎ西ベルリンに向かったのに対し、アデナウアーは西ベルリンにすぐに行くことはなかった。フランスのド・ゴール大統領は、パリ南のコロンベ・レ・ドゥ・ゼグリーゼの別荘でいつものように週末の休暇で、やはり就寝中にクーヴ・ド・ミュルヴィル外相から電話で事態を知らされた。ド・ゴールはその時に「これで、ベルリン問題に片が付く」と語ったといわれる[60]。
この頃、アメリカのスマイサーとトリンカは偵察を続け、フリードリッヒ通り駅に到着した。まだ深夜であったが、数十人の乗客(女性・子供・老人ら)がプラットホームに上がろうとして警官に押し戻されて、トリンカは後に「これが最後のチャンスと思ったのだろう。全ておしまいだと悟り、涙を流していた。」と語っている。駅構内には、12日付の党中央委員会からの命令書が以下のように張り出されていた[61]。
東ベルリンと西ドイツ間の長距離列車は時刻表通り運行するが、当駅ではプラットホームAの発着とする。
ベルリンの東西を運行する都市鉄道の以下の路線は運行を停止する。
東ベルリン側郊外からの列車は当駅を終点としプラットホームCの発着とする。
(中略、該当路線リスト)
都市鉄道は今後も当駅と西ベルリン間を連絡するが列車はプラットホームBの発着とする。
この命令書には、その他に地下鉄の閉鎖駅が列挙され、西側からの路線の通る東側の地下鉄駅は列車が停止しないことも明らかにしていた。そしてここには記されていなかったが、これ以降西へ乗車できるのは警察からの正式な証書を持つ人だけとなり、プラットホームAとBはやがて閉鎖された。この駅から西へ向かって運行が再開されたのは、1989年になってからである[62]。この日に都市鉄道の8路線、地下鉄の4路線が交通不能となり、都市鉄道の48駅の全てで地区間交通が廃止され、東ベルリンの33駅のうち13駅が営業停止となった[63]。
東ベルリンは大騒ぎとなり、人が動きトラックが動き回り、空気ドリルが道路を掘削していた。警察本部では電話が鳴り響き、各地区警察には命令が飛び交った。午前5時30分には、ポツダムに駐屯する工兵小隊が建設作業に駆り出された[64]。実際国境線近くの作業に駆り出された国境警備隊、予備警察隊、警察学校生徒、そして労働者階級戦闘団などは、内容は事前に一切知らされず、深夜になってから命令が出されて、動員されているのがほとんどであった。
エーリッヒ・ホーネッカーはずっと境界沿いを車で走り、細かい指示を出しながら作戦の進行状況を確認していた。午前4時頃にはほぼ作戦の重要な部分が達成されていることに満足して執務室に戻った。午前6時頃には全指揮官から任務は指示された通り実行されたとの報告を受けた。朝の6時までに東西ベルリン間の通行はほとんど不可能になり、有刺鉄線による壁は午後1時までにほぼ建設が完了した。ホーネッカーはウルブリヒトに最終報告を済ませて帰宅した。
この夜のうちに、まだ境界線が強化されていない地域から、数百人の東ベルリン市民が西へ脱出した。湖沼や運河を渡った者、西ベルリン市民の知人の車のトランクや座席の下に隠れた者、自分のナンバープレートを西の友人のプレートに付け替えて越境した者など様々であったが、難民脱出のハッチはこの夜に閉ざされた。1961年8月13日にマリーエンフェルデ難民収容所に来た者は150名だった。しかし実際の越境者の数は不明である[65]。
これで東西ベルリン間の48キロを含む、西ベルリンを囲む環状155キロに渡る有刺鉄線が僅か一夜で完成した。2日後には石造りの壁の建設が開始された。その境界線は東西に193本の主要道路及び脇道を横切っており、それまで81カ所の検問所があって通行可能であったが、その内69カ所がこの日に有刺鉄線によって封鎖され、12カ所に限定された[66]。
東ドイツは建設当時、この壁を「近代的な西部国境」と呼び、「平和の包囲線」とも呼ばれていた。そして翌年8月、壁建設1周年記念行事を準備していた時に、この壁の正式名称の検討を始め、党政治局に設置された情宣委員会と中央委員会書記アルベルト・ノイデンが名称を「防疫線(コルドン・サニテル)」とする案がいったんは通ったが、再度検討することとなり、西側からの軍事的な攻撃を防ぐためのものであるとして、「対ファシズム防壁(Antifaschistischer Schutzwall)」と呼ぶことに決定した[24]:124-125。これは名目で、実際には東ドイツ国民が西ベルリンを経由して西ドイツへ流出するのを防ぐためのものであり、「封鎖」対象は西ベルリンではなく東ドイツ国民をはじめとした東側陣営に住む人々であった。
ブラント市長の苦悩
午前5時にハノーファーで夜行列車から急遽降りて、空港から飛行機で西ベルリンに戻ったブラントは、すぐに壁の建設現場に駆けつけた。「それまで何度かの危機でも頭はさめていたのだが、今度ばかりは冷静、沈着でいられなかった。」「何千、何万という家族が引き裂かれ、ばらばらにされていくのを見て、怒り、絶望する以外にはなかった。」と後に自伝で述べている[16]:163。そしてブラントの目に映ったもう一つの冷たい現実があった。アメリカの冷静な態度であった。西ベルリン駐留のアメリカ軍は国防総省にも国務省にもホワイトハウスにも報告はしていた。しかし伝えられてきたのは「収拾がつかないような反応が起こらないようにせよ。」であった。休暇先からボンに戻ったモスクワ駐在西独大使のクロルは「西側諸国の受け身の態度に西ドイツの失望は大きかった。ベルリン市民は見捨てられたと感じていた。」と語っている。8月13日に、西ドイツも西ベルリンも連合国側の冷静さに驚かされていた。8月16日付けの西ドイツの大衆紙「ビルト」は一面トップで「西側、何もせず」という見出しを出した。西側は口頭での抗議しかなかった[16]:163-166。後に有名になったこのビルト紙の見出しは「東側は行動を起こす・・西側は何をするか・・西側は何もせず・・ケネディは沈黙する・・マクミランは狩りに行く・・アデナウアーはブラントを罵る」であった[24]:70。
壁を作った東側への怒り、何の手も打たない西側諸国とりわけアメリカへの失望、さらに西ドイツ政府への幻滅、アデナウアーはベルリンに来ず、15日の選挙演説でブラントの過去を取り上げて個人攻撃をする始末であった。アデナウアー首相は西ドイツ首相として首都ボンに留まり、すぐにベルリンに赴くことはせず、過度に慎重な姿勢に終始した。それどころか、ボンに駐在するソ連大使スミルノフに会い、「西ドイツは状況を危険に曝すような如何なる手段も取らない」と述べ、またタカ派で有名であったシュトラウス国防相でさえ、国民に冷静さを呼び掛けていた[67]。
8月16日に市庁舎前の広場で25万人の市民が集まって抗議集会が開かれ、ブラントは抗議の演説をした[16]:167。しかしまかり間違えば、市民の怒りは連合国側へ向けられることも十分に予測される事態に苦渋に満ちたものであった。ここで「ソ連の愛玩犬ウルブリヒトはわずかな自由裁量権を得て、不正義の体制を強化した。我々は東側の同胞の重荷を背負うことは出来ません。しかしこの絶望的な時間において彼らと共に立ち上がる決意のあることを示すことでのみ、彼らを援助出来る。」としてアメリカに対して「ベルリンは言葉以上のものを期待します。政治的行動に期待しています。」と述べた。ブラントはケネディに書簡を送ったことも明らかにした[68]。
ソ連の安堵
ソ連は東ドイツ軍の後方の第三陣として布陣して、大量の軍事的動員を行うことで、アメリカ軍などの西側への強いメッセージを送った。アメリカ軍が介入してきた場合の代価がどれほどのものになるか、明確に伝えたのであった。東ドイツ駐留ソ連軍総司令官のイワン・コーネフ元帥は、若干の危惧を持っていた。東ドイツ軍及び警察部隊の忠誠がどこまで信用できるのか、西側諸国の軍隊が前進してきたら彼らはどう反応するのか不安を感じざるを得なかった。しかし西側の軍隊は動かなかった[69]。
そしてモスクワではフルシチョフが有頂天になっていた。米英仏を出し抜いたことで、最初は安堵しそれから歓喜の情に浸り込んでいった。東ドイツとの平和条約の締結によって得られると思っていたそれ以上のものを得たと感じていた。そしてフルシチョフはさらに突き進んだ。しばらく米ソ間で行っていなかった核実験の再開をアメリカよりも早く行った[70]。
アメリカの沈黙
アメリカなど西側諸国はベルリンをめぐる一連の出来事に対して最初から慎重な態度であった[3]:356。それはこの動きが全て東側の領土内でのことで、ケネディが7月25日の声明で示した3つの条件の侵害はなく、全て向こう側のことであったことがその理由だった。それはまた西側も望んでいたことでもあった。不思議なことに実はアデナウアーも同様だった。
8月13日(日曜日)午前10時(ベルリン時間午後4時)にラスク国務長官とコーラー国務副長官が国務省に着いた。ラスクは「東ドイツとソ連が自国内でしたことだから戦争と平和の問題には直結しない。」と考え、「壁は彼らの防衛手段だ。また西ベルリンの位置とそこを包囲する軍事力の差を考えると自滅に追い込まれると予想され、道理に合わない。」と後に述べている。そして現地がソ連に対して抗議声明を出すことを禁じていた[71]:137-138。1945年7月7日に米英仏ソの4ヵ国で、ベルリンではお互いの部隊が制限を受けることなく行動できることを同意していた。ベルリン封鎖の後に1949年6月20日にも4ヵ国協定によって再度確認していた。従ってケネディは、この協定に基づいて東ドイツ部隊によって作られた壁を解体せよとアメリカ軍に命令する権利を持っていた。そもそもベルリンで東ドイツ軍が行動する権利はないのであった。しかし西側は動かなかった[72]。この日にハイアニスポートで休暇中だったケネディとラスクが電話で打合せして抗議声明の内容を決めたが、この4ヵ国協定を引き合いに出しているものの予想の範囲内でしかなかった。ラスクはその日の午後に大リーグの試合セネタース対ヤンキースを見に野球場に行った。アーサー・シュレンジャー補佐官はその後の著書の中で「東ドイツの出血を止めることで、壁はベルリンに対するソ連の最大の関心を鎮めた。」と述べている[16]:168。これはソ連勢力圏内の一現象に過ぎない、下手に介入するとか、脅迫じみた言動をすることは、危険すぎると考えていた。
8月14日にハイアニスポートからワシントンに戻ったケネディは午前にモスクワから戻ったトンプソン大使と会い、午後にラスク国務長官と会談した。ベルリン駐在のライトナー公使から何度もメッセージが届き、西ベルリン市民の士気が急激に低下している旨の内容であった[73]。西ベルリンに居住する西側3ヵ国の軍関係者及び家族などの軍属並びに外交官などは従来通り東ベルリンへの通行は妨げられず、3カ所のチェックポイントを通って東ベルリンと往来は出来た。また西ドイツから西ベルリンへの陸路、そして空路もそのままで、西ベルリンに関する西側の権利を侵害することは無かった。
そして16日にブラントからの書簡を受け取ったケネディであったが、アデナウアー首相を飛び越えて一つの都市の市長からアメリカ大統領に書簡を送ったこと自体にケネディは怒っていた。しかし西ベルリンではアメリカが裏切ろうとしているという疑念が広まっているという報告を受けて、自分は一貫してクレムリンに立ち向かっていることをベルリン市民にも、ソ連人にも、そして国内のアメリカ人にも示すことが重要である認識に至り、何らかの行動に出ることを決意した[74]。
イギリスのマクミラン首相は趣味の狩猟に出かけてスコットランドに滞在し第一報が入ってもそこに留まった。マクミランには状況は改善したと見えていた。これでドイツの分断は固定化し、ベルリン問題は安定化し、ベルリン危機は緩和された。つまりすべて目的は達せられたと考えていた[24]:71。
西ベルリンへの軍隊派遣
8月18日、ケネディはジョンソン副大統領とクレイ将軍[注 10]をボンに派遣し、副大統領と将軍はそこから翌19日に西ベルリンに飛び、西ベルリン市民は二人を熱狂的に迎えた。ジョンソンは市庁舎前の広場で「今日、新しい危機において、あなた方の勇気は自由を愛する全ての人々に希望をもたらします。」「この都市の存続と未来を、我々アメリカは我々の先祖が独立宣言で誓ったもの、それと同じく我々の生命、財産、神聖な名誉に懸けて誓うものです。」と述べた。この言葉は13日の国境封鎖以来、意気消沈していたベルリン市民を勇気づけ、涙する者もいた。そして西ドイツから陸路アウトバーンで東ドイツを通過してアメリカ陸軍の精鋭部隊が西ベルリンに向かっていることもこの時にベルリン市民に伝えた[76]。
8月20日にアメリカ陸軍第8歩兵師団第1戦隊約1600人が西ベルリン駐留部隊を増強するため、ベルリン市民の歓呼の中で西ベルリンに到着した。この精鋭部隊を東ドイツを通って西ベルリンに派遣すること自体がソ連との武力抗争を引き起こしかねない危険を伴うものと危惧する幹部もいたが、ケネディは西ベルリンを徹底的に防衛する決意を示すために実行した。そしてこの結果は西ベルリンへのアクセス権の確保が確かなものであることも裏付けられたが、西ベルリン市民にとってはアメリカが旗幟を鮮明にしたことだけで十分であった[77]。
注釈
- ^ 厳密には、ドイツ帝国、ヴァイマル共和政、ナチス・ドイツを通じて正式国名は一貫して「ドイツ国」であった。
- ^ NATO(北大西洋条約機構)の基になった条約で、前年1948年3月にイギリス・フランス・オランダ・ベルギー・ルクセンブルクがブリュッセルで条約を結んで相互防衛の行動を約束し、このブリュッセル条約締結国に加えて、アメリカ・カナダ・デンマーク・アイスランド・イタリア・ポルトガル・ノルウエーの各国が相互防衛を規定した条約である。1952年にギリシャとトルコ、1955年には西ドイツが加わった[9]:61-62。
- ^ 西ドイツはこの事件への抗議の意を込めて、ブランデンブルク門から西に延びる通りを「6月17日通り」と改名した。東側は変わらずウンター・デン・リンデンと呼ばれた。
- ^ ダンチヒ(現在のポーランド領グダニスク)は、かつてプロイセン領内にあったがポーランドの海の玄関口であり、第一次世界大戦後にポーランドが独立を回復してドイツとポーランドの狭間となった際はどちらの国にも属さない自由都市ダンチヒとして存在したことを意識したもの。
- ^ この情報は当時は伏せられて西側には伝わらず、5年後の1966年8月に『デア・シュピーゲル』が伝えて初めて分かったことであった。
- ^ ウルブリヒトがこの時に強気に出たのは事実だが、フルシチョフがその要請に屈したとか、待つように求めたという言説は当時の東西冷戦時代の時代環境を理解すればあり得ない話である。これはベルリンに関する4ヵ国協定が存在する限り、東ドイツは何も出来ず、ソ連は米英仏3ヵ国との緊張関係の中でベルリンと関わっていて、一触即発で戦争状態も想定される状態の中で、むしろ東ドイツの動きを抑える立場であった。主導権は東ドイツが崩壊するまでソ連が握っていた。
- ^ キッシンジャーは、この時に別に文書をケネディに提出していた。その文書では、モスクワに対する強硬な意見をキッシンジャーも持っているが、外交を一切無視するようなアチソンの提言を無謀と断じた。そしてベルリン問題に対するケネディのスタンスに対しての警告を誤解の余地の無い内容で表現した。フルシチョフのベルリン自由都市構想(1958年)に対する中途半端さ、自由選挙に基づくドイツ統一を空想的と見なす考え方、アデナウアー首相を毛嫌いしていること、ベルリン問題についての関心不足が大西洋同盟に危機を生み出し、その結果で米国の安全上の利益を害する恐れがあり、西側諸国に深刻な影響を与えることなどを述べて「政策に関する如何なる考察も西側はベルリンで敗北などしていられないという前提から出発しなければならない」「大統領は西ベルリン市民の希望と勇気を維持するために、彼らに我々の信念が確実で実体的な証しを与えるべきだ」とした。しかし結局自分の意見が真剣に取り上げられることはない、と感じてこの年の10月にホワイトハウスのスタッフを辞任した[34]。キッシンジャーがホワイトハウスに国家安全保障担当特別補佐官として戻ってきたのは、それから8年後のニクソン政権になってからである。
- ^ 彼がこのレポートを出してすぐに西ベルリン支局から編集者が訪れたが、彼はその根拠を示せぬまま、東ベルリンで息をひそめながら注意深く周囲を観察していた。
- ^ アデナウアーは、この日が日曜日であったので、いつものように朝にミサに行っている。
- ^ ルシアス・クレイ。1948年に西ベルリンが東側に封鎖された時に、大空輸作戦で西ベルリンを守った功労者である。[75]:159
- ^ なお一部の無人地帯には電線があったが、これは警報装置への電源・信号ケーブルで、一部で言われたような高圧電流を流した剥き出しの金属線ではなかったとされている。
- ^ 『ベルリン物語』[17]では155kmとしているが、『ベルリンの壁』[24]では 160kmとしている。
- ^ ここで、ケネディはドイツ語で語っている。これはドイツ到着後にRIAS放送ディレクターのロバート・ロックナーとアデナウアー首相の通訳ハインツ・ヴェーバーから教わり、耳で聞いた通りにカードに書き込んでいた。そしてIch bin ein Berlinerも同じカードに書き込んでいた[93]。
- ^ よくこの言葉は不定冠詞einを入れたので「私はドーナッツ菓子です」と言っているようなものだ、という指摘をして間違ったドイツ語だったという説を唱える向きがあるが、RIAS放送ディレクターとアデナウアー首相の通訳の2人と事前に話し合って、einを抜かすと「私はベルリン生まれである」という意味になって、かえって聴衆を混乱させるとして、この言い方になったという。聞いていた30万人の西ベルリン市民がその意味するところを理解したからこそ熱狂し、その表現に言語学的疑問を感じた者はいなかった[94]。
- ^ 「ヒトラーもビスマルクもどの皇帝も王も、これほど多くの人々の熱狂に歓迎されたことはない」とワルター・H・ネルソンは著書「ベルリン子たち」で書いている。そしてこの時の迎える側のブラント西ベルリン市長は後に「これほどの歓喜の声に包まれた客人はベルリン史上に例があるまい」と自伝に書いている[16]:190-192。
- ^ その日の夜、大統領専用機でベルリンを後にアイルランドに向かった際に、機内でケネディはセオドア・ソレンセンに「われわれの人生で今日みたいな日は二度とないだろう」と語った[97]:280。
- ^ 国際法的な意味での国家承認ではない。エドガー・ヴォルフルム著「ベルリンの壁」147P参照
- ^ あるいは「ベルナウアー通り」と表記する文献もある。
- ^ 壁崩壊後の1997年の「狙撃兵裁判」でリトフィンを射殺した警備兵は禁固1年6カ月の有罪判決を受けたが執行猶予付きであった。
- ^ この派手な逃亡劇はその後映画化されている。
- ^ 上述の通り、米英仏ソ4か国の軍隊は壁を越えて市内全域のパトロールを認められており、米軍はこの権利を誇示する目的で1日おきに昼間と夜間に4-5台が東ベルリンをパトロールしていた。このパトロールは、規定によりボンネットに国旗を立てていたため、「フラッグ・パトロール」と呼ばれていた[106]。
- ^ 2009年8月にドイツ政府の委託で壁記念センターと現代史研究センターとが4年がかりで壁の死者について調査した結果を発表した。その発表では、1961年から1989年までにベルリンの壁を乗り越えようとして死亡した者は少なくとも136名に達したとしている[114]:260。2009年11月8日にNHKはニュースで放送している。
- ^ 【西ドイツは東ドイツ国民も本来は自国民であるとの考えから政治犯を「買い取って」いたため、東ドイツ国民であれば「壁を越える」という方法を採らなくても「西ドイツに行きたがる政治犯」として東ドイツ当局に逮捕されれば犯罪歴等がない限り、西ドイツに亡命できる可能性はあった。例えば検問所に行き「西に行きたい」と言って当局職員の説得を受け入れず逮捕されるとか、西行きの列車にパスポートなしで乗り込み国境でのパスポート検査で逮捕されるといった方法である。】 といった言説は、東側に《犯罪歴が無い限り》といってもこの行動自体で「逃亡未遂罪」の重大な犯罪に問われ、平均4年の禁固刑に処せられ、この逃亡を幇助した者にはより重い刑罰が科されること[24]:116からすれば、余りにも東ドイツの現実の厳しさを知らない話である。実際に起こったことではなく、政治犯の処遇の過酷さも分からないお粗末な話で、無知な妄言と言わざるを得ない。[要出典]
- ^ 【政治犯の一人当たりの買取価格は9万5,847マルク(1977年以降。壁崩壊時のレートで約700万円)で、西ドイツは離散家族も含めて25万人を買い取り、計35億マルクを東ドイツに支払った[119]。】という言説は、単純計算で人数に誤りがあり、正確性を欠いている。
- ^ 【他にも東欧共産圏への複数回の旅行(許可制)を繰り返して政府を信頼させ西側への旅行許可を得て亡命したものもいるが、富裕層以外には不可能な方法である。また特に若い女性であれば、外国人との結婚により容易に国外への移住が可能であった。】という言説は滑稽な話である。そもそも社会主義国に富裕層は存在せず、党幹部でも簡単に外国へは行けない国であった。国内の旅行さえ不自由な国で外国人との結婚が容易である訳はなく、また結婚できても国外への旅行は申請しても簡単には許可がおりず、壁が東の人間を閉じ込めていたことを少しも理解していない話である。[要出典]
- ^ 正式には「ドイツ民主共和国政府及びベルリン参事会間の議定書」と呼ばれ、東西ドイツ間の協定ではない。東側が従来から西ベルリンは西ドイツと別個の政治単位であると主張していたためである。このため西ドイツ政府(アデナウアー政権)はこの通行証協定は東側の主張を認めるものであるとの懸念を隠せなかったが、ブラント市長は人道的措置であることを強調した。実際には、交渉の当事者である西ベルリン市から協定交渉の妥結をボンの西ドイツ政府に伝え、西ドイツ政府が閣議で了承した後にブラント市長宛てに通告してから協定を結ぶものであった[121]。
- ^ 同一都市内に壁が建設された都市は、このベルリン以外にはメドラロイトだけであった。という言説があるが、正しくはメドラロイトは村であり、都市ではない。
出典
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