タタール
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ヨーロッパ史のタタール
東ヨーロッパ
ヨーロッパのキリスト教世界の中でも最も東に位置し、恒常的にテュルク系の遊牧民と接触していたルーシ(現在のロシア・ウクライナ[52])は1223年にモンゴル帝国の最初の襲撃を受け、1237年にはバトゥ率いる征西軍の侵攻を受けて、ノヴゴロド公国以外は全てモンゴルの支配下に入った。ルーシの人々は、おそらく周囲にいたポロヴェツなどのテュルク系遊牧民が東方のモンゴル系遊牧民たちをタタルと呼んでいたのにならって、彼ら東からやってきた遊牧民たちをタタールと呼んだ。 1245年、モンゴル皇帝グユクに謁見するためローマからカラコルムに向かったローマ教皇インノケンティウス4世の使者プラノ・カルピニは往路途中、ルーシの古都キエフが襲撃により今や廃墟であったことを記している。
バトゥの征西で大被害を受けたルーシは、続けてバトゥがヴォルガ川下流に留まって建国したジョチ・ウルスの支配下に入り、モンゴルへの服従と貢納を強制された。モスクワ大公国が1480年に貢納を廃止し、他地域も独立するまで約200年前後にわたって続くことになる、このモンゴル=タタールによる支配のことをロシア史では「タタールの軛(くびき)」と呼ぶ。
ジョチ・ウルスのモンゴル人たちはやがて言語的にはテュルク語化、宗教的にはイスラム教化してゆく。15世紀にはジョチ・ウルスは再編と解体が進んでクリミア半島にクリミア・ハン国、ヴォルガ川中流域にカザン・ハン国、西シベリアにシビル・ハン国などが生まれるが、これらの地域ではかつてのモンゴル系支配者と土着のテュルク系などの様々な人々が混交し、現在クリミア・タタール、ヴォルガ・タタール、シベリア・タタールと呼ばれるような民族が形成されていった。タタールの中には、ロシアやルーマニアに移住して、キリスト教を受け入れて現地に同化する者も多く現われており、ユスポフ家、カンテミール家など有力な貴族となった家もある。
ロシアは、16世紀頃までに「タタールの軛」を脱するが、その後もクリミアやヴォルガ、シベリアなどに広く散らばるテュルク=モンゴル系の人々をタタールと呼んだ[43]。ロシア帝国は18世紀までにこれらのタタールはほとんど全てを支配下に置く。
ロシア治下のタタールのうち、ヴォルガ川中流域のカザン周辺に住むヴォルガ・タタール(カザン・タタールともいう)が経済的・文化的に成長し、ロシア領内のムスリム(イスラム教徒)中で最大の共同体へと発展していった。ロシア・ソビエト連邦では様々な民族に分かれたタタールたちをまとめてタタール民族として扱っていたが、それらのうちで継続してタタールの自治共和国を持つことができたのはヴォルガ・タタール人のみであった(ソビエト連邦ロシアSFSRタタール自治ソビエト社会主義共和国→ロシア連邦タタールスタン共和国)。このため、ロシア領を話題とする多くの文脈で、単にタタール人といったときも、狭義にはヴォルガ・タタール人を指していることが多い。クリミア・タタール人は1921年ロシアSFSRにクリミア自治ソビエト社会主義共和国の建国を許可されたが、ヨシフ・スターリンによるクリミア・タタール人追放政策により人口比民族が大幅に減少、1945年にはクリミア州に格下げとなった。1954年管轄がウクライナSSRに移動。ソ連崩壊後のウクライナではクリミア自治共和国として、2014年のロシアによるクリミアの併合後にはクリミア共和国としてそれぞれ自治権が復活している。
13世紀から17世紀において、多様なタタール族がポーランド・リトアニア共和国に移住や難民とし居住した。ポーランド王=リトアニア大公は、高いスキルの戦士として知られていたタタール人を好んだからである。13世紀-14世紀の間、リプカ・タタール人 が移住し、15世紀から16世紀にはクリミア・タタール人とノガイ族などが移住し、ポーランド軍で高い評価を得ていた。16世紀から17世紀に、ヴォルガ・タタール人が移住した。主にリトアニア大公国(現在のリトアニアとベラルーシ)に定住した。ポーランドには、リプカ・タタール人を筆頭に、ハザールを起源とするクリミア・カライム人など多くのタタール系やテュルク系民族が定住した。
西・南ヨーロッパ
バトゥの征西は東ヨーロッパのポーランドからハンガリーまで達し、ルーシのみならず西ヨーロッパ・カトリック圏にも大きな衝撃を与えているが、西ヨーロッパの人々は、ロシア語のタタールという名をさらにギリシャ語で地獄の住民を意味するタルタロスに重ね合わせ、モンゴル人たちをタルタル人と呼んだ。そしてモンゴル帝国以来、中央ユーラシア、中央アジア、北アジアの諸民族をタルタル人と呼ぶ用法が長く残ることになる。
例えばモンゴル高原や北アジアは、19世紀まで西ヨーロッパの人々によってタルタリーと呼ばれており、その地の住民であるモンゴル系、テュルク系の遊牧民たちはタルタル人、タルタリー人と呼ばれつづけていた。17世紀に清を建てた満州人はツングース系の非遊牧民であるが、彼らもヨーロッパ人にはタルタル人の一種とみなされていた。近代に中央ユーラシアの諸民族に関する知識がヨーロッパの人々に根付くにつれ、タルタルの名は使われなくなっていくが[53]、その名残は現代において払拭されてはいない。例えば、ヴォルガ・タタール人などのタタールの名を冠する民族が英語圏で言及されるとき、Tatars ではなく Tartars と綴られることもしばしばである。
注釈
出典
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- ^ 当時は、北東ルーシのノヴゴロド公国、ウラジーミル・スーズダリ大公国や南西ルーシのハールィチ・ヴォルィーニ大公国など10以上のルーシ(諸侯)が分裂・割拠していた。
- ^ 過渡期では、例えば19世紀のコンスタンティン・ムラジャ・ドーソンは、その著書『チンギス・カンよりティムール・ベイすなわちタメルランに至るモンゴル族の歴史』(日本語題は『モンゴル帝国史』)において、今日では学術上モンゴル系民族(Mongolic people)と称する諸部族のことを「タルタルの諸種族」と記している。
- ^ 塔塔尔族(中国語)の日本語訳、読み方は - コトバンク 中日辞典
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