サクラローレル 競走馬時代

サクラローレル

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/08 00:48 UTC 版)

競走馬時代

4歳(1994年)

成長が遅く、かつ飛節が弱いなど、体質が弱かった[15][14]。そのため、出走できる状態になるまで時間を要し、3歳ではデビューすることができなかった[12]。4歳となった1994年1月6日、骨膜炎を抱えながらも、中山競馬場新馬戦(芝1600メートル)でデビュー、1番人気に推されて9着[15]。続く2戦目の新馬戦[注釈 3]は、3着。開催が東京に移った1月30日、弱い脚元を考慮してダートに転向[12]。5番手から直線大外に持ち出し、後方に3馬身差をつけて初勝利を挙げた。その後は、5月の東京優駿(日本ダービー)を目標に、まず500万円以下に参戦[12]。この頃から脚元が万全になったことで、間隔を詰めることができるようになった[15]。初勝利から3週間後の芝では6着。その2週間後のダートでは、出遅れてタイキブリザードに4分の3馬身差、後方に7馬身差の2着[15]。騎乗したオリビエ・ペリエは「勝った馬は確かに強いがこの馬も強い。芝向きなのではないか?[16]」と語ったという。さらに3週間後の3月26日のダートでは、好位から直線で抜け出し、後方に2馬身半差をつけて優勝、500万円以下は3戦で突破した[15]

続いて4月30日、東京優駿の「ダービー指定オープン重賞」である青葉賞GIII)に出走。若葉ステークス4着の2勝馬エアダブリン弥生賞5着の1勝馬ノーザンポラリスに次ぐ3番人気で出走[17]。中団後方を追走し、直線では馬場の最も内側から追い上げた。先に抜け出していたエアダブリンを目指したが、半馬身以上及ばなかった[15]。3着は確保し、東京優駿の優先出走権を獲得した。しかし、かねてより不安のあった右後肢の球節炎が発症したため[14]、もしくは連戦の影響で体調が整わなかったため[18]、東京優駿出走を断念。笹針を打って休養し、夏休みとなった[18]

秋は9月4日、新潟競馬場の佐渡ステークス(900万円以下、芝2000メートル)で復帰し3着。続いて菊花賞の優先出走権が与えられる競走であるセントライト記念GII)に、東京優駿2着のエアダブリンに次ぐ2番人気で出走し、8着[18]。その後は菊花賞ではなく、900万円以下に進んだ。1番人気2着2回を経て11月20日、同厩舎の活躍馬で、マイルチャンピオンシップに出走するサクラバクシンオーに帯同する形で京都競馬場へ遠征[4]。出走した比良山特別(900万円以下、芝2200メートル)では、後方待機から直線で抜け出し、2馬身差をつけて優勝し、3勝目を挙げる[4]。それから関東に戻り12月18日、距離を延ばした芝2500メートルの冬至ステークス(1500万円以下)では、第3コーナーから先頭、直線で伸びて2馬身差をつけて連勝[4]。13戦を要してオープンクラスに昇格した[12]

5歳(1995年)

重賞初勝利

前年12月から連戦して1995年1月5日、重馬場の開催となった金杯(東)GIII)に出走。皐月賞7着、東京優駿8着の同期オフサイドトラップが3.0倍の1番人気に推され、それに次ぐ4.9倍の2番人気であった[19]。スタートから逃げ馬がハイペースで逃げる中、中団を追走[20]。第3コーナーにて大外から進出し、失速する先行勢を吸収、最終コーナーをオフサイドトラップに並ぶ2番手で通過した[4]。直線で伸びるとオフサイドトラップを突き放して独走、後方に2馬身半差をつけて入線。3連勝で重賞タイトルに到達した[20]。サクラの主戦騎手で、新馬戦からここまで、ほぼすべてのレース[注釈 4]で騎乗していた小島太は「3コーナーあたりからハミを取らせたら、行きっぷりが他馬と違いました。もうそのあたりで勝ったと思いましたね。(中略)まさかこんなに強い勝ち方をしてくれるとは。大目標は春の天皇賞です。距離に関しては全く問題ないし、このまま順調に行けばかなり期待できますよ[20]。(強調は引用者)」、境は「(前略)春の天皇賞に行っても十分勝負になると思います。(強調は引用者)[20]」、谷岡も「天皇賞(春)を目指すと聞いております。(ナリタ)ブライアン? まだ対戦したことがないので楽しみにしているんですが(後略、カッコ内補足加筆者)[20]」と述べている。

続いて天皇賞(春)のステップレースとして、2月19日の目黒記念GII)に出走[4]。単勝オッズ1.5倍[21]、同期のセントライト記念優勝馬ウインドフィールズ、年上の日経賞優勝馬ステージチャンプを8倍台に押しのける1番人気に支持された[22]。スタートから中団に待機。第3コーナーから位置を上げ、好位で最終コーナーを通過した[4]。直線では、早めに抜け出したものの、後方から追い込んだ6番人気ハギノリアルキングに並ばれた[21]。競り合いに負けてクビ差の2着[18]。ハギノリアルキングはコースレコードを樹立、サクラローレル自身もレコードを更新するタイムで走破したが敗北[21]。小島は「仕掛けが早かったとは思わない。でも左回りだとちょっと手前の替え方がぎこちないね[18]」と述べている。

骨折

その後は、4月23日に京都で行われる目標・天皇賞(春)に向けて、栗東トレーニングセンターに移動し調整を実施[23]。しかし、調教中に骨折。両前脚深管骨折[18][24]、もしくは両前脚第三中中手骨骨折[4][23]と伝えられる。そのうえ競走能力喪失に「等しい[23]」「近い[4]」という診断が下された。競走能力のみならず、命をも失う危険のある重傷であったが、治療によって一命を取り留めることに成功した[18]。競走能力喪失と診断されれば、多くの場合その競走馬は引退となる。だが、境はサクラローレルの貴重なヨーロッパの血統と、併せ持つ高い能力を諦めることができず、現役続行させることを決断した[23]。療養は厩舎において行われた。この間に担当厩務員の佐々木里司が定年により引退[4]。境は新たな担当厩務員を募集したが、誰も故障馬の世話をやりたがらなかったため、自身の孫の小島良太を指名する[4]。良太はサクラローレルの育成に携わった後、ヨーロッパ修業、保田隆芳厩舎を経て、嶋田潤厩舎の調教助手を任されていたが、境は、嶋田の了承を経た上で良太を厩舎に引き入れている[4]。復帰の時期については、当初この年の暮れを目標にしていたが、翌1996年1月6日のガーネットステークスに延期[25]。球節に不安が出たことから、再び延期して3月10日の中山記念での復帰となった[25]

6歳(1996年)

中山記念

1年1カ月の休養を経て6歳となった1996年、3月10日の中山記念GII)で復帰[23]。この間に主戦騎手を務めていた小島太は騎手を引退。良太の提案により、横山典弘が新たな主戦騎手となった[26]。前年の皐月賞優勝馬、東京優駿2着、天皇賞(秋)2着のジェニュインが3.7倍の1番人気、以下、前年の京都新聞杯など4歳限定重賞3勝のナリタキングオーが4.4倍、前年の中山記念3着のエーブアゲインが6.5倍、セキテイリュウオーサイレントハピネスなどが続く中、サクラローレルは、19.5倍の9番人気であった[27]。スタートから後方3番手を追走し、第3コーナーから進出[28]。最終コーナーで先行勢の外に持ち出して、追い上げた[28]。内ではジェニュインや14番人気ペガサスが抜け出しを図っていたが、その外から末脚を使って差し切り、横山が手綱を緩めて先頭で入線[29]。後方に1馬身4分の3差をつけて、重賞2勝目を挙げる[25]。この時、直線で見せた末脚は「怒涛の末脚[29]」(三好達彦)「ごぼう抜き[25]」(白石俊)と語られた。横山は「緩急自在に対応できるし、馬込みもまったく苦にしません。自分の持っていた印象とは、まったく違っていました。凄い馬ですよ。[25]」と述べている。中384日に空けての重賞勝利は、スズパレードの中461日に次いで歴代2位だった[30]

天皇賞(春)

4月21日、前年に欠場した天皇賞(春)(GI)に出走を果たす。単勝オッズ14.5倍の3番人気に推される[31]。それ以上に人気を集めたのは、前哨戦の阪神大賞典第44回阪神大賞典)にて、接戦の末にアタマ差で決着した2頭であった。その勝者ナリタブライアンが1.7倍の1番人気となる。前々年にクラシック三冠を果たし、有馬記念、阪神大賞典を連勝。その後は連敗し、この阪神大賞典で1年ぶりの勝利を挙げたばかりだった[32]。そして、マヤノトップガンが2.8倍の2番人気となる。菊花賞と有馬記念を連勝、古馬初戦に阪神大賞典でナリタブライアンにアタマ差敗れていた[32]。対戦成績1勝1敗[32]、共に年度代表馬である2頭に人気は集中。特に馬番連勝式の2頭の組み合わせは、支持率37.5パーセント、116億円が投じられているという「二強」状態であった[33][34]。一方のサクラローレルは、この2頭との対決経験がなかった。3番人気の評価は『優駿』によれば「真に実力を評価されたというよりも、未知の魅力を買われたという要素が大きかった。[34]」と伝えられる。

映像外部リンク
1996年 天皇賞(春)(GI
レース映像 JRA公式YouTubeチャンネルによる動画

1枠1番からスタートして、中団の内、ナリタブライアンの近くを追走。スローペースの中、ナリタブライアンが2周目の向こう正面で動き、先行するマヤノトップガンに接近、最終コーナー手前では2頭が並び立っていた[35]。サクラローレルはナリタブライアンを追って2頭の背後を確保して、最終コーナーを通過[36]。直線入ってまもなく、ナリタブライアンがマヤノトップガンを下して先頭となっていたが、その後方外から末脚を発揮[28]。ナリタブライアンを差し切って差を広げ、先頭で入線した[35]GI初勝利、ナリタブライアンに2馬身半差をつけての優勝は「金星[33]」(蔵内哲爾)と呼ばれるほど価値の高いものであった。

横山は「サクラローレルの力を信じて乗りました。それと4(最終)コーナーで(ナリタ)ブライアンの直後につけられたのも勝因のひとつでしょうね。(中略)想像以上の末脚を使ってくれました。直線では相手(中略)以上の瞬発力を持っていましたね。(ナリタ)ブライアンを交わした〔ママ〕時に、勝利を確信しました。(後略)[33]」と述懐している。前年の天皇賞(秋)はサクラチトセオーが勝利しており、境および谷岡牧場、さくらコマースは天皇賞秋春連覇[37]。境は、グレード制導入以降、史上3例目となる管理馬の連覇となり、別の管理馬で成し遂げたのは史上初めて[注釈 5]であった[37]。また横山は天皇賞初勝利、父横山富雄が1969年秋をメジロタイヨウで、1971年春をメジロムサシで勝利しており、伊藤正四郎・正徳親子に続いて、史上2組目の天皇賞親子制覇となった[37]。(レースの詳細は第113回天皇賞を参照。)

有馬記念

天皇賞(春)優勝後は「暑い時期に無理をさせたくない[38]」として宝塚記念を見送り、厩舎に留まり笹針治療が施されて夏休みを過ごした[38]。秋は、オールカマーで始動し天皇賞(秋)、有馬記念に出走するプランを計画[38]。オールカマーでの復帰は相性の良い中山を走らせたかったため[38]、ジャパンカップ見送りは4戦すると「馬に負担がかかって[39]」(境)しまうためであった。また、天皇賞(秋)と有馬記念出走は、良太によれば「オールカマーを叩いたあと、秋のGI3連覇を狙うのはきつい[40]」として、1戦を諦め「歴史のある[40]」(良太)2戦を選択したためであった。

9月15日、重馬場のオールカマー(GII)では、天皇賞の後、宝塚記念を勝利したマヤノトップガンが1.8倍、それに次ぐ1.9倍の2番人気で出走する[41]。スタートから中団を追走し、位置を上げて最終コーナーを4番手で通過[39]。直線では内を突いて抜け出し、先行したマヤノトップガンなどとの差を広げた。後方に2馬身半差をつけて先頭で入線、重賞連勝を果たした[39]。続いて10月25日の天皇賞(秋)に、マーベラスサンデーバブルガムフェロー、マヤノトップガンを上回る1番人気で出走。スタートで出遅れ、直線では外から追い込んだものの、勝負所で進路を確保できなかった[42]。内に転進してから伸びるも、抜け出していたバブルガムフェローに半馬身以上敵わず3着[43]。この敗戦に境は、「わざわざ馬込みに突っ込んで、全く自分から負けに行った。今度は俺が乗ってきっちりと勝ってやる[44]」と感じたが、横山の続投となる。横山は「外を回れば楽に差し切れたのに・・・・最高に下手に乗った[35][45]」と振り返っている。

その後は予定通り、ジャパンカップを見送り、12月22日の有馬記念(GI)に出走[46]。単勝オッズ2.2倍の1番人気となり、以下、天皇賞(秋)2着のマヤノトップガンが5.9倍、同4着のマーベラスサンデーが8.4倍、ファビラスラフインヒシアマゾンが9倍台で続いた[47]。このレースは、史上最高売上、後に1レースの売上のギネス世界記録と認定される総額875億104万2400円が投じられている[48][49]。そのうち、単勝式の売上は24億6434万円[注釈 6][49]であり、1番人気サクラローレルの単勝支持率は36パーセントを占めていた[49]

映像外部リンク
1996年 有馬記念(GI
レース映像 JRA公式YouTubeチャンネルによる動画

4枠6番からスタートし、中団の内側を追走[50]。第3コーナーで外に持ち出し進路を確保、位置を上げて先行するマーベラスサンデーの直後を得て、最終コーナーを通過した[50]。直線では、先頭をマヤノトップガンとマーベラスサンデーで争っていたが、サクラローレルがその外からまとめてかわした[50]。以後独走し、後方に2馬身半差をつけて入線、GI2勝目を挙げた[51]

横山、境、さくらコマースは共に有馬記念初優勝[47]。横山はこれがJRA通算700勝目であった[52]。また横山は、年初めの重賞である中山金杯をベストタイアップで制しており、1991年熊沢重文以来4人目となる、同一年の初めと終いに行われる重賞の両方制覇を果たしている[52]。横山は「前回は悔しい思いをしていたので自分自身のために負けられなかった。ほんとうに勝ててよかった[51]」と述べている。

有馬記念が催される前までは、突出した成績を残した馬がおらず、JRA賞年度代表馬の行方は定まっていなかった[53]。看板であるクラシックのタイトル5つは5頭で分け合っており、GI2勝馬はスプリント戦線を統一したフラワーパークのみであった[54][53]。そのため権威の高い「有馬記念を勝った馬が、最も(JRA賞)年度代表馬に近い馬[53]」(『優駿』)だと広く認識されていた。そんな中、サクラローレルが、古馬の一線級らに2馬身半差をつけて完封し、1989年イナリワン以来史上10頭目となる「天皇賞(春)優勝馬による有馬記念優勝」を達成する[52]。権威のある王道路線でナリタブライアンやマヤノトップガンを下して日本一を証明しつつ、GIタイトル数でフラワーパークに並んだことで、年度代表馬の投票はサクラローレルに集中した[55][53]。全183票中179票を得て、年度代表馬を受賞を果たす[56]。次点4頭――バブルガムフェロー、ファビラスラフイン、フラワーパーク、ホクトベガをそれぞれ1票に留めたうえでの選出だった[56]。加えて全183票中183票、満票でJRA賞最優秀5歳以上牡馬も受賞している[56]

7歳(1997年)

2月28日、境が定年のため調教師を引退、サクラローレルは騎手引退後、調教師に転身した小島太厩舎に転厩する[50]。境は「死ぬまでに一度は有馬記念を勝ちたい[40]」と述べていたが、それは定年直前、最後のチャンスでサクラローレルによって叶えられていた[51]。境はサクラチヨノオーやサクラユタカオー、サクラチトセオー、スリージャイアンツなどを管理してきた調教師人生を振りかえり、サクラローレルをそれらを上回る「最強」の馬[57]、「これほど強い馬は初めて[58]」だと評している。

有馬記念後は、球節に軽い骨折が判明して休養する[3]。アクシデントがなければ、ドバイワールドカップ出走や、ヨーロッパの長期滞在を経て、凱旋門賞参戦の選択肢も視野に入れていたが、実現しなかった[59]。骨折により、調整が遅れたため、4月27日の天皇賞(春)に直行することとなった[3]。単勝オッズ2.1倍の1番人気であり、以下、有馬記念7着、阪神大賞典優勝から臨むマヤノトップガンが3.7倍、有馬記念2着、産経大阪杯優勝から臨むマーベラスサンデー4.1倍であった[60]。スタートから中団を追走、第3コーナーで進出[50]。直線ではマーベラスサンデーとの競り合いを制したが、マヤノトップガンにかわされて1馬身半差の2着となった[61]。(このレースの詳細は第115回天皇賞を参照。)

その後は、亡き全演植の夢だった凱旋門賞[61]、日本調教馬としては1969年スピードシンボリ、1972年メジロムサシ、1986年シリウスシンボリに続いて28年ぶり4頭目となる参戦を目指した[62]。8月にフランスへ移動し、シャンティイ競馬場近くの調教場に滞在する[63]。この滞在の鞍上は、武豊が起用された[64]。良太は当初、横山とのコンビに拘りを持っていた[65]。しかし横山は、ドーヴィル競馬場での日仏騎手対抗競走に出場したついでに、滞在中の厩舎を訪れている。横山は、良太と武に握手をさせて、仲介した[65]

9月14日、前哨戦としてロンシャン競馬場フォワ賞(G3)に参戦、武は「ロンシャンコースの追い切りのつもりで乗ってきます[63]」と述べていた。現地の新聞23紙のうち、7紙で本命視され、現地の人気は単勝オッズ2.8倍の1番人気であった[63]。スタートから3、4番手を追走したが、直線で後退。最下位8着で入線直後に、武は下馬[63]。翌15日の精密検査で、右前脚屈腱不全断裂が判明した[61][63]。現地の獣医師は薬殺を宣言したが、良太がそれを阻止している[66]。凱旋門賞には出走せず、フランスで引退が決定[51]。帰国した後の12月20日、中山競馬場で引退式が行われた[66]


サクラローレル血統 (血統表の出典)[§ 1]
父系 ブラッシンググルーム系
[§ 2]

Rainbow Quest
1981 鹿毛
父の父
Blushing Groom
1974 栗毛
Red God Nasrullah
Spring Run
Runaway Bride Wild Risk
Aimee
父の母
I Will Follow
1975 鹿毛
Herbager Vandale
Flagette
Where You Lead Raise a Native
Noblesse

*ローラローラ
Lola Lola
1985 栗毛
Saint Cyrien
1980 鹿毛
Luthier Klairon
Flute Enchantee
Sevres Riverman
Sartoga
母の母
Bold Lady
1974 栗毛
*ボールドラッド
Bold Lad
Bold Ruler
Misty Morn
Tredam High Treason
Damasi
母系(F-No.) (FN:14) [§ 3]
5代内の近親交配 Nasrullah 4×5 [§ 4]
出典
  1. ^ [98]
  2. ^ [99]
  3. ^ [99]
  4. ^ [98]

注釈

  1. ^ サクラローレルが天皇賞(春)を勝利したり、凱旋門賞を目指す頃には、既に死去している。天皇賞(春)の優勝盾は、息子の全尚烈が受け取っていた。[9]
  2. ^ 例えば、後ろ脚をニワトリのように持ち上げて歩く「鳥足」であった。
  3. ^ 折り返しの新馬戦と呼ばれる。
  4. ^ 3月6日の500万円以下はオリビエ・ペリエ、9月25日のセントライト記念GII)は的場均が騎乗している。
  5. ^ 小原伊佐美(1988年春秋:タマモクロス)、伊藤修司(1989年秋1990年春:スーパークリーク
  6. ^ ほか、複勝式13億6611万9800円、枠番連勝式118億3273万8200円、馬番連勝式718億3784万4400円。計875億104万2400円。

出典

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