クシャーナ朝 経済

クシャーナ朝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/18 17:30 UTC 版)

経済

クシャーナ朝の領土は、同時代に中央インドで繁栄を迎えてきたサータヴァーハナ朝などと同じく交易によって繁栄を迎えていた。かつてクシャーナ朝が北西インドを征服する以前、この地域の貨幣経済は衰退期を迎えていた。原因は知られていないが、北西インドではが不足し、インド・パルティア人やサカ人の諸王朝が発行する銀貨は極度に品質の悪いものとなっていた。

しかし、クシャーナ朝が北西インドを支配した時代、すなわちヴィマ・タクトとヴィマ・カドフィセスの治世以降、彼らは盛んに金貨と銅貨を発行し、特に北西インドで作られた金貨は質・流通量ともに向上した。ローマやインドの商人によってローマやインドへ向けて香料宝石染料などが輸出された。これらの商品はローマでは原価の百倍もの価格で売れ、代金として金がクシャーナ朝にもたらされた[注釈 6]

クシャーナ朝にとってローマとの貿易がいかに重要なものであったかは、彼らが発行した金貨の単位からもわかる。クシャーナ朝は金貨の単位をローマの金貨単位にリンクさせており、その金貨は正確にローマの2アウレウス分の重量を持っていた。さらにローマのデナリウスはディーナーラとして、その通貨単位がクシャーナ朝に取り入れられた。

※参考:オクタヴィアヌス時代のローマの通貨交換レート

  • 1アウレウス(金貨) = 25デナリウス(銀貨)
  • 1デナリウス(銀貨) = 4セステルティウス(黄銅貨)
  • 1セステルティウス(黄銅貨) = 4アス(青銅貨)

クシャーナ史の論点

王朝交代説

クシャーナ朝の王統は長く貨幣銘文などによる断片的な記録に基づいて復元されており、不明点が多い。クシャーナ朝の王統復元について長く支持されてきた説がクジュラ・カドフィセスとヴィマカドフィセスの属する王朝と、カニシカ以後の王朝は別の王朝であるとする説、すなわちカニシカ王による王朝交代説である。

これはカニシカ以後、「カドフィセス」から「イシカ」系列に王名が切り替わっていることや、カニシカが独自の暦を定めていること、両カドフィセス王時代のコインではギリシア語の称号をギリシア文字で、プラークリット語の称号をカローシュティー文字で、併記する様式であったのに対し、カニシカ王以後はバクトリア語の称号をギリシア文字で記したものに変化していることなどを根拠としている。

これとあわせて、チベットの伝説にホータンの王子ヴィジャヤキールティが「カニカ」(Kanika)王とグザン(Guzan、おそらくはクシャン、クシャーナ)王とともにインド遠征を行ったというものがあること。漢訳仏典の中にカニシカがホータン出身であると解せるものがある。このことからカニシカが小月氏の出身であるとする説もある。

ところが近年新たにカニシカ王の碑文が解読され、クシャーナ朝の歴史について多くの新事実が明らかとなった。この碑文は1993年アフガニスタンのラバータクで偶然発見されたもので、バクトリア語で記された1200字あまりの文書であり、クシャーナ朝時代のものとしては最も長文の記録の一つである(ラバータク碑文)。内容はこの地方のカラルラッゴ(総督)であったシャファロに対して、カニシカ王の祖先の彫像を納める神殿を建設することを命じたことが記録されたものであった。この結果、カニシカ王とそれ以前の王との間に血縁があったことが判明した。

この碑文の解読によって、曾祖父のクジュラ・カドフィセス、祖父のヴィマ・タクト、父のヴィマ・カドフィセス、そして碑文を作らせたカニシカの4名4世代の王統が判明した。特にヴィマ・タクト[注釈 7]は従来全く知られていない王であったが、彼の存在が明らかになったことによって初期クシャーナ朝の歴史に本質的な修正がもたらされた。これまでクシャーナ朝時代に発行されたコインの中で、ソテル・メガスという称号のみが記されたタイプの物がクジュラ・カドフィセスによるものか、ヴィマ・カドフィセスによるものかが論じられてきたが、その多くはヴィマ・タクトのものであると考えられるようになり、クシャーナ朝の大幅な勢力拡大が彼の時代に行われた可能性も考えられている。

大月氏とクシャーナ朝

貴霜翕侯(クシャーナ族)が元々大月氏に属し、大月氏の他の翕侯を従えた後、クシャーナを国号として王と名乗ったという『後漢書』の記録や、伝統的な月氏の王の称号を用いたことからもわかるように、大月氏とクシャーナ朝は多分に連続性の強い政権であったと考えられる。

中国ではクシャーナ朝が権力を握った後も、その王を大月氏王と呼び続けた。『後漢書』には以下のようにある。

月氏自此之後,最爲富盛,諸國稱之皆曰貴霜王。漢本其故號,言大月氏云。

(クジュラ・カドフィセスのインド征服)以後、月氏は最も富み盛んとなった。諸国は彼をクシャーナ王と呼んでいる。漢では古い国号を用いて大月氏と呼んでいる。

— 後漢書

また、中国の三国時代にヴァースデーヴァ(波調)がに使節を派遣した際、魏はヴァースデーヴァに対し、「親魏大月氏王」の金印を贈っている。これは倭国の王卑弥呼に対するものと並んで、魏の時代に外国に送られた金印の例であることからよく知られているが、3世紀に入っても中国ではクシャーナ朝が大月氏と呼ばれていたことを示すものである。

しかし、大月氏とクシャーナ朝を同一のものと見なしていいかどうかにはさまざまな立場がある。ソグディアナホラズム地方の大月氏系諸侯は、クシャーナ朝とは別に独立王国を形成していたことが知られており、これらの大月氏系諸国をクシャーナ朝が征服した痕跡は現在まで一切発見されていない。

歴代王

  1. クジュラ・カドフィセス(カドフィセス1世 - 80年頃、『後漢書』によれば80歳以上まで生きた)
  2. ヴィマ・タクト1世紀後半)
  3. ヴィマ・カドフィセス(カドフィセス2世、2世紀前半)
  4. カニシカ1世2世紀半ば)
  5. ヴァーシシカ(2世紀半ば)
  6. フヴィシカ(2世紀後半)
  7. ヴァースデーヴァ(3世紀前半)
  8. カニシカ2世(3世紀前半、一時ヴァースデーヴァと共同統治?)

サーサーン朝の征服


注釈

  1. ^ 後漢書』西域伝では高附翕侯の代わりに都密翕侯が上げられている。
  2. ^ 翕侯(きゅうこう)とはイラン系遊牧民における“諸侯”の意。烏孫などにも見受けられる。ベイリによればイラン語で“統率者”の意で、E.G.プーリーブランクによればトハラ語で“国家”の意であるという。また、のちのテュルク系国家に見られるヤブグ(葉護:官名、称号)に比定されることもある[要出典]
  3. ^ 江上波夫は五翕侯を大月氏によって任命された月氏人戦士の封建諸侯であるとした[要出典]
  4. ^ 榎一雄は大月氏における五翕侯を大月氏によって任命された土着有力者とした[要出典]
  5. ^ クジュラ・カドフィセスによるカブール支配の確立は、彼が翕侯の地位についた後の出来事である。それはクジュラ・カドフィセスがヘルマエウスと共同で発行したコインの中にヤヴガ (Yavuga) という称号が刻まれている物があることから知られる[要出典]
  6. ^ プリニウスは当時インド人がローマの金を年間5千万セステルティウス持ち去っていると記しているが、これにはクシャーナ朝にもたらされた分も含まれているであろう[要出典]
  7. ^ ヴィマ・タクト (Vima takto) の名前は碑文の摩滅によって正確にはわからず、名前の最後を「to」と読む説は確定的ではない[2]

出典

  1. ^ 小谷 1999, pp.101-111.
  2. ^ 山崎 2007, p. 139.






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