オーストリア継承戦争 背景

オーストリア継承戦争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/09/02 06:57 UTC 版)

背景

ハプスブルク家の継承問題

神聖ローマ皇帝カール6世は男子に恵まれず、長年後継者に悩んでいた。女子の相続を認める国事詔書1713年に発布し、その後に生まれた娘のマリア・テレジアハプスブルク家領(オーストリアをはじめとするハプスブルク帝国)を継がせるため、いくらかの譲歩を行ってフランスなど欧州主要国にこの詔書を認めさせた。

帝位継承者をめぐって

ハプスブルク家はまた、15世紀以来神聖ローマ皇帝を世襲してきたが、女子は帝位に就けないので、マリア・テレジアの夫トスカーナ大公(元ロレーヌ公フランツ・シュテファン[注釈 1]の即位を要求した。しかしルイ15世のフランス宮廷は、ハプスブルク勢力を弱体化させる絶好の機会として背後で画策し、攻撃を仕掛けた。これがオーストリアと周辺諸国の間での戦争に発展した。

遡ると、ハプスブルク家はカール5世の所領を、スペインやイタリアおよび新大陸は嫡男のフェリペ2世に、オーストリア方面は弟のフェルディナント1世にそれぞれ相続させた。オーストリア系の祖であるフェルディナント1世には4男があり、三男以外の3人が成人した。次男フェルディナント貴賤結婚により子孫に継承権が無かった。長男マクシミリアン2世の男系子孫は17世紀中に全て断絶し、カール6世が崩御したことで四男カールの系譜も男系が断絶した[1]

バイエルン選帝侯カール・アルブレヒトは、カール6世の兄ヨーゼフ1世の次女マリア・アマーリエの夫であったが、皇帝の女婿であったことのみを継承権の根拠とはしなかった[1]。カール・アルブレヒト自身も、フェルディナント1世の長女アンナの子孫であり、フェルディナント1世の男系子孫が断絶した今、適法の相続者であるとして権利を主張した[1][注釈 2]

オーストリア・ハプスブルク家の継承に関する系図
フェルディナント1世
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(バイエルン公)
アルブレヒト5世
 
アンナカールマクシミリアン2世
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ルドルフ2世
※断絶
 
 
マティアス
※断絶
 
 
 
 
 
 
 
 
フェルディナント2世長・五・九・十男:夭折
八男:断絶
 
 
 
 
 
 
レオポルト1世
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ヨーゼフ1世
※男系男子断絶
カール6世
※男系男子断絶
 
 
 
 
 
 
カール・アルブレヒト
 
マリア・アマーリエマリア・テレジア
 
(ロレーヌ公)
フランツ・シュテファン
 
 

シュレージエンを巡る係争

シュレージエン(シレジア)を巡っては、そもそもイェーゲンドルフ(クルノフ)侯領を、1523年にホーエンツォレルン家の傍流であるブランデンブルク=アンスバッハ辺境伯ゲオルクが購入した。さらに、ラティボル公国およびオッペルン公国も、協定によりホーエンツォレルン家領となる予定だったが、三十年戦争時に神聖ローマ皇帝フェルディナント2世に収公された[2]。また、リーグニッツ(レグニツァ)ブリーク(ブジェク)、ヴォラウの3公領も、フェルディナント1世の例に反していることを理由に、1675年に収公された[2]。1696年に、ブランデンブルク選帝侯フリードリヒ3世(後、プロイセン初代国王)は、これらの地への権利を復活させた[2]

18世紀に入り、ポーランド継承戦争後、ハプスブルク帝国ザクセンの弱体化と、フランスやロシア帝国の進出により、ユーリヒ=ベルクはヨーロッパの勢力均衡上の要地となった[3]

1738年2月、カール6世はフランスの圧力により、ユーリヒ=ベルクの相続権をプロイセンから奪った[4]。プロイセンはこの代償として、3公領(リーグニッツ、ブリーク、ヴォラウ)を要求した[4]。1740年に即位する第3代国王フリードリヒ2世(大王)は、東方の西プロイセン(現ポーランド領)、西方のユーリヒ公国ベルク公国(ユーリヒ=ベルク公国)の獲得を指向するようになった[5]

プロイセンの勃興

ブランデンブルク=プロイセン北方戦争によって国際的影響力を増し、さらにスペイン継承戦争でハプスブルク家側に付いた結果、神聖ローマ皇帝レオポルト1世より王号を認められた。1701年1月18日、初代国王フリードリヒ1世は「プロイセンにおける王」(König in Preußen)として即位し、プロイセン王国が誕生した。フリードリヒ1世は、軍政と財政を合わせて管轄する総軍事委員会英語版や、地方貴族代表の地方長官と君主から派遣されていた地方委員ドイツ語版に統一することで、軍制の強化を図った[6]

第2代国王のフリードリヒ・ヴィルヘルム1世は、1723年に軍事財政管理局英語版を創設して、父王の政策を継いで行政組織を強化した[7]傭兵への依存による欠点を補うため、まず1716年に陸軍幼年学校ドイツ語版を設立し、プロイセン貴族からのみ将校を育成した[7]。そして1733年に正式成立したカントン制度に基づく農民からの徴兵により、フランス、ロシアに次ぐ規模の陸軍大国となっていた[8]

フリードリヒ・ヴィルヘルム1世の王太子フリードリヒは文化面にも優れ、生涯に様々な著書や論考を遺した。1738年には『ヨーロッパ諸国家体制の現状に関する考察』を記した。さらに1739年に記した『マキャヴェリ駁論』では、啓蒙思想に基づき「君主は人民の第一の下僕に過ぎない」と説き、自然権として人民の福祉を果たすために、それを直接防衛する軍事を重んじ、即位後は親政を執った[9]。しかし、これはプロイセンの利害のために、既存の勢力均衡を武力で変更することを正当化した思考でもあった[5]

1740年10月、フリードリヒ王太子が第3代国王フリードリヒ2世(大王)として即位する。フリードリヒは、マリア・テレジアの相続と夫フランツ・シュテファンの皇帝選出に異議はなかった[10]。しかし、特にユーリヒ=ベルクとシュレージエンについて、相続要求の権利がプロイセンにとって合法的であるとして、妥協することはできず、ハプスブルク家およびフランスとの対決を決心するに至った[4]

国際情勢

フランスは、ドイツ方面への関心により、1738年にスウェーデンと同盟を結んだ。スペインは植民地を巡ってイギリスグレートブリテン王国)と対立し、1739年からジェンキンスの耳の戦争の渦中にあった。イギリスはユーリヒ=ベルクを巡って、王室同士が姻戚関係にあるにもかかわらず、プロイセンと対立した[4]。プロイセンから見て西方の情勢は以上であり、一方の東方は、オーストリア・ロシア・トルコ戦争の結果、1739年にハプスブルク家が敗北していた。したがって、プロイセンは最も弱いオーストリアを狙い、勢力均衡を試みることとなった[11]

主にオーストリアを支援したのは、フランスと対立するイギリスとオランダネーデルラント連邦共和国)であった。後にザクセンサルデーニャ王国もオーストリアの側で参戦した。

これと敵対する側に立ったのはプロイセン、フランス、スペイン、バイエルンであった。


注釈

  1. ^ 系図では省略しているが、レオポルト1世の妹でハプスブルク家出身のエレオノーレがフランツ・シュテファンの祖母であり、女系でハプスブルク家の血を引いていた。
  2. ^ 系図では省略しているが、これに加えてレオポルト1世の叔母でハプスブルク家出身のマリア・アンナがカール・アルブレヒトの曾祖母であった。

出典

  1. ^ a b c 進藤 1966 p.212
  2. ^ a b c 久保田 2001 p.237
  3. ^ 進藤 1966 p.207-208
  4. ^ a b c d 進藤 1966 p.208
  5. ^ a b 進藤 1966 p.207
  6. ^ 進藤 1966 p.199-200
  7. ^ a b 進藤 1966 p.200
  8. ^ 進藤 1966 p.200-201
  9. ^ 進藤 1966 p.207-206
  10. ^ 進藤 1966 p.207
  11. ^ 進藤 1966 p.209






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固有名詞の分類

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