アフリカ戦線 (第一次世界大戦) 東アフリカ戦線

アフリカ戦線 (第一次世界大戦)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/18 22:14 UTC 版)

東アフリカ戦線

東アフリカ戦線英語版

ベルギー領コンゴ公安軍(ドイツ領東アフリカにて)
戦争第一次世界大戦
年月日1914年8月3日 - 1918年11月23日
場所タンザニアザンビアモザンビークルワンダブルンジケニアウガンダコンゴ民主共和国
結果連合国の勝利
交戦勢力
イギリス

ベルギー

ポルトガル

イタリア

ドイツ帝国
指導者・指揮官
ヤン・スマッツ パウル・フォン・レットウ=フォルベック
戦力
40,000名 15,500名

東アフリカではドイツ領東アフリカ(のちのタンガニーカタンザニア連合共和国大陸部の一部)、ブルンジ共和国およびルワンダ共和国)から戦闘が始まり、最終的にポルトガル領東アフリカ(のちのモザンビーク共和国)、イギリス領東アフリカ(のちのケニア共和国)、北ローデシア(のちのザンビア共和国)、イギリス保護領ウガンダ英語版(のちのウガンダ共和国)、ベルギー領コンゴ(のちのコンゴ民主共和国)に波及した。イギリス軍は4年の努力と何万もの犠牲者(その多くは風土病による)を出しながらドイツ植民地の占領あるいはドイツ軍の鎮圧ができなかった。

パウル・フォン・レットウ=フォルベック大佐(のち少将)に率いられたドイツ植民地軍は、奇襲、ヒット・エンド・ラン攻撃、および待ち伏せ攻撃を繰り広げた。再三再四、イギリス軍はレットウ=フォルベックの部隊を陥れる計画を練ったが、彼を捕まえることはできなかった。ドイツ軍はドイツ領東アフリカ全土を動き回り、土地のものを食べて生活し、イギリスおよびポルトガルの物資を奪った。レットウ=フォルベックは第一次世界大戦を通して戦い抜き、ドイツの休戦協定署名後になって降伏した。

情勢

ドイツ領東アフリカは広く、地形が複雑な地域だった(大地溝帯の一部、タンガニーカ湖、およびヴィクトリア湖が含まれる)。それは豊富な水源となる山脈や北西部の肥沃な土地、乾燥し、砂と岩だらけの中央部、野生生物の豊富な北東部の草原、広大な無人の森林地域のある南東部など変化に富んでいた。沿岸部にはスワヒリ族英語版アラブ商人が居住し、アラブ人はイギリスが支配するザンジバルとのちのケニアおよびモザンビークの沿岸部とともに、中部アフリカとの貿易を牛耳っていた。

戦争勃発時、ドイツ植民地の管理責任者であるハインリヒ・シュネー総督は敵対的行動をとることのないよう指示した。北のイギリス領東アフリカ(ケニア)では、イギリスの総督が、イギリス領東アフリカは「現在行われている戦争には関心が無い」との声明を出した[5]。その理由の一つにはどちらの植民地も多くの兵がいなかったからということがあった。しかし、東アフリカの小規模なドイツ軍の指揮官フォン・レットウ=フォルベック大佐はシュネーを無視し、戦闘に向けて軍を召集した。開戦時ドイツ防衛隊(Schutztruppe)には約200名の将校と1,700名のドイツ人兵士、2,500名のアスカリがいた。

1914年

開戦

ドイツ領東アフリカでの戦闘は1914年8月に始まった。8月15日、ルアンダ=ウルンディのドイツ軍はベルギー領コンゴの数ヶ所の村を砲撃した。8月22日、タンガニーカ湖のドイツ軍艦はアルバートヴィル(のちのカレミ)の港に対して砲門を開いた。

9月、ドイツ軍は隣接するイギリス領東アフリカおよびイギリス保護領ウガンダに侵入した。また、レットウ=フォルベックはヴィクトリア湖に小艦隊を創設し、それは小さな戦果で大きな衝撃を与えた。イギリス軍はヴィクトリア湖での制水権を回復するため、数隻の砲艇を分解して鉄道で湖へ運んだ。また、1914年11月2日イギリス領インド軍2個旅団タンガへの上陸を試みたが、ドイツ軍は上陸部隊を撃退する(タンガの戦い)。正確で激しい砲撃が浜の上陸部隊の進撃を阻止し、3日後には上陸部隊を船へ押し戻した。砂浜にはドイツ軍が翌年まで本拠を維持できるだけの物資が残されていた[6]

1915年

イギリス=ベルギー軍のタンガニーカ湖遠征

1915年、ドイツ軍が優勢であったタンガニーカ湖にイギリス軍はモーターランチミィミィ号とトウトウ号英語版を送り込んだ。ジェフリー・スパイサー=シムソン英語版中佐指揮の下、この2隻は1915年12月26日にドイツ軍のキンガニと交戦しこれを捕獲した。1916年2月9日にはフィフィ号英語版と改名されたキンガニとミィミィがドイツ軍武装商船ヘードヴィヒ・フォン・ヴィスマン英語版を撃沈した。ドイツ側は特設砲艦「グラーフ・フォン・ゲッツェン」を就役させたが、連合軍の水上機によって撃破した。

1915年にはレットウ=フォルベックの部隊には3,500名のドイツ兵とおよそ12,000名のアスカリが加わっていた。

1916年

スマッツ将軍到着

イギリス軍のホレス・スミス=ドリエン英語版将軍はドイツ軍との戦闘の指揮官に任命されていたが、南アフリカへの航海中に肺炎に罹り、指揮をとることができなくなった。1916年ヤン・スマッツ将軍がレットウ=フォルベック撃破の任を受けた。スマッツは(その地域では)大規模なおよそ13,000名のブール人を含む南アフリカ兵、イギリス兵およびローデシア兵のほか、7,000名のインド人およびアフリカ人兵士を擁していた。また、彼の直属では無いが同じ連合軍としてベルギー軍と、ポルトガル領東アフリカには大規模だがまったく頼りにならないポルトガル人部隊がいた。イギリス軍に指揮されたアフリカ人ポーターによる大規模な運搬兵団(Carrier Corps)が、鉄道や道路がいたるところで寸断されている内陸部に入ったスマッツの軍に物資を供給した。これらはそれぞれ別々の国の部隊であったが、原則的に南アフリカ軍のスマッツに指揮された。

ベルギー領コンゴ軍の参戦

参戦したベルギー領コンゴ軍はかなり大規模だった − 戦闘部隊を含まない後方支援部隊だけでおよそ260,000人の運搬兵が動員された。トンブール英語版将軍、モリトール大佐およびオルセン大佐に率いられたベルギー領コンゴの植民地軍(公安軍)は1916年4月18日に参戦した。彼らは5月6日キガリを占領した。ブルンジのドイツ軍は善戦したが、数で勝るベルギー領コンゴ軍に屈服せざるをえなかった。6月6日、彼らはウスンブラを攻略し、その頃にはルワンダとブルンジを完全に制圧した。

病気との戦い

スマッツ軍は複数方面から攻撃した。主攻勢は北のイギリス領東アフリカから、同時にベルギー領コンゴの相当数の部隊が西から2個縦隊で進軍しヴィクトリア湖を越え、大地溝帯に侵入した。もう一つの部隊が南西からニヤサ湖(マラウイ湖)を越え進軍した。これらすべての部隊はレットウ=フォルベックを捕らえることができず、全員が進軍中に重い病気を患った。例えば第9南アフリカ歩兵隊は2月には1,135名いたが、ほとんど戦闘することもないまま10月には116名にまで減っていた[7]。しかし、ドイツ軍は、ほとんどいつも大規模なイギリス軍に対すると撤退し、1916年9月までにはダルエスサラームの海岸からウジジに至るドイツの鉄道はすべてイギリスの支配下になった。

ベルギー領コンゴ軍のタボラ占領作戦

ベルギー領コンゴ軍はその後タボラ占領作戦を開始した。彼らは3個縦隊でタンガニーカに進撃し、ビハラムロ、ムワンザ、カレマ、キゴマおよびウジジを攻略した。数日に渡る激戦の後彼らはタボラを制圧した。ベルギーがドイツ植民地に対する権利を主張するのを恐れたスマッツは、あわててルワンダとブルンジを占領したベルギー軍をコンゴへ返させた。トンブール英語版将軍指揮のベルギー軍はドイツ領東アフリカ中央部にある行政の中心地タボラを占領した。

東アフリカ南部への封じ込め

これによりレットウ=フォルベックの軍はドイツ領東アフリカ南部に閉じ込められたため、スマッツは彼の南アフリカ兵、ローデシア兵およびインド人兵をアフリカ人兵と交代させ、後方へ下がらせた。1917年初頭にはイギリス軍の半数以上はアフリカ人により構成されており、終戦の頃になるとほぼすべてがアフリカ人部隊になっていた。スマッツは1917年1月にこの地を去り、イギリス戦時内閣に入閣するためロンドンへ向かった。

1917年

しかし、イギリス軍は1917年にベルギー領コンゴ軍に対し再び援軍を求めざるをえなくなった。以降、両軍は行動をともにした。イギリス軍はレットウ=フォルベックの軍を捕縛あるいは撃破するために作戦を続けていたがドイツ軍の抵抗を鎮圧することはできなかった。まずイギリスの王立アフリカ小銃隊のホーキンス将軍が指揮を引き継ぎ、次いで南アフリカのファン・デフェンテル将軍が指揮を執った。

1917年7月、ファン・デフェンテルは攻勢に出た。レットウ=フォルベックの軍は3個のグループに分かれ、そのうち2個グループはなんとか攻勢から逃れることができたが、タフェル指揮のおよそ5,000名からなる第3グループは投降を余儀なくされた。ドイツ軍は大規模なイギリス軍を釘付けにし、時には敗退させた。例えば、ドイツ軍は1917年10月にマヒワ近郊にてイギリス軍を破った(マヒワの戦い英語版)。ドイツ軍は100名を失ったのに対し、イギリス軍は1,600名を失った。それでも、イギリス軍はドイツ軍に迫った。

1917年11月23日、レットウ=フォルベックは南のポルトガル領東アフリカ(のちのモザンビーク共和国)領内に入った。彼は小規模のポルトガル駐留部隊を捕らえ、新兵と物資を獲ることに望みをかけた。

1918年

彼はその後の約9ヶ月間に渡り捕縛を避けながらポルトガル領東アフリカ領内を進撃したが、ほとんど戦力を強化することはできなかった。その後再びドイツ領東アフリカに戻り、1918年8月に今度は北ローデシアに侵入した。

レットウ=フォルベックの投降

アフリカ人芸術家が描いた、アバーコーンにてイギリス軍に投降するレットウ=フォルベック

11月11日にヨーロッパでドイツが休戦協定に署名していたが、その2日後の11月13日にレットウ=フォルベックのドイツ軍は彼らが最後に攻略したカサマの街を焼き、イギリス軍から退避した。次の日、チャンベジ川英語版コンゴ川の最上流部)でレットウ=フォルベックはドイツが休戦協定に署名したことを告げる電信を受け取り、戦闘停止に同意した。11月23日、要請に従い、レットウ=フォルベックは残余の部隊を率いて北ローデシアアバーコーン英語版まで行進し、そこで正式に投降した[8]。レットウ=フォルベックの部隊は戦闘においてほとんど敗北することがなく、ドイツに英雄として凱旋した。ザンビアにはフォン・レットウ=フォルベック記念碑が建てられている。

評価

この戦線では1人が戦死するごとに30人が病気で死ぬか戦闘不能になった(イギリス軍側)[9]

シリル・フォールズは述べている。

レットウ=フォルベックの功績は不朽の名声に値する。彼は本土から孤立していた。彼には決定的勝利を望むことは許されなかった。彼は純粋にイギリス軍の人員を、輸送を、そして物資をできる限り消費させるために、イギリス軍のできる限り多くを、できる限り長く引き伸ばすことだけを狙っていた。その意味では、彼は成功したと言える。 — Cyril Falls, "The Great War" pg. 254

歴史家フレッド・レイドは次のように評価している。

今にして思えば、東アフリカでの戦役は第一次世界大戦の「付け足し」のように見られるようになった。記憶が西部戦線での大虐殺に集中したせいで、その「悪意の地」の痛みに耐えたインド人、アフリカ人そしてイギリス人のことはほとんど忘れ去られた。今日でも、それは総死者数の概算を得るだけのものに過ぎない。イギリス軍は1万名以上を失い、その3分の2は病死だった。ドイツ軍は約2,000名を失った。だが、運搬兵の東アフリカ黒人は病気、極度の疲労および軍事行動によりはるかに苦しめられた。誰も彼らの運命を記録することさえしなかった。現在推定されるところでは両軍で100,000名が死亡したとされている。黒人民間人もひどく苦しんだ。戦争は多くの場所を荒廃させ、その結果、飢え、病気、死をもたらした。何千ものアフリカ人は戦後彼らの地で発生したインフルエンザ[10]により死亡した。少なくとも一部のアフリカ人は、長い間ヨーロッパ人により「野蛮人」の汚名を着せられたが、多くの場合野蛮人は文明という白人の仮面の裏側にいたことは明らかだった。 — Fred Reid, "In Search of Willie Patterson" p.121

コンゴにいた無名のベルギー人宣教師は当時のコンゴ人の生活について書いている。「父親は前線にいて、子供たちが前線に食料を運んでいる間、母親は兵士のために雑穀を挽く。」コンゴ人はヨーロッパで戦うことは無かったけれども、コンゴの人々もまた戦争で多くの犠牲を払った。


  1. ^ Keegan, "The First World War", pg. 206
  2. ^ Keegan, "The First World War", pg. 207
  3. ^ 注:日本では一般にトランスヴァール共和国と呼ばれる。
  4. ^ Hypertext version of The Rise of the South African Reich, Brian Bunting, chapter 1.”. 2008年5月7日閲覧。
  5. ^ Keegan, "The First World War", pg. 210
  6. ^ Keegan, "The First World War", pg. 211
  7. ^ Cyril Falls, "The Great War", pg. 253
  8. ^ The Northern Rhodesia Journal online Vol IV No 5” (英語). “The Evacuation of Kasama in 1918”. pp. 440-442 (1961年). 2007年3月7日閲覧。
  9. ^ John Keegan, The First World War, pg. 300
  10. ^ 訳注: スペインかぜのこと





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