Ju 87 G
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「Ju 87 (航空機)」の記事における「Ju 87 G」の解説
すでに旧式化していたJu 87はG型で対戦車攻撃機として新しい役割を担うこととなった。これはJu 87の実用化された中では最終型であり、東部戦線で使用された。1943年以降のドイツの軍備の弱体化に加え、凄まじい数のソ連戦車が出現していた状況下で、ユンカース社はこの脅威に対抗しうる戦力として既存の設計をうまく適用させた。Hs 129Bは有能な対地攻撃機ではあったが、Hs 129Bの大きな燃料タンクは敵の対空砲火に対して脆弱であり、ドイツ航空省は「できるだけ早期にHs 129Bの代わりとなる兵器が必要である」と述べた。ソ連戦車を主な標的とするJu 87 Dの更なる発展型として、Ju 87 Gの開発は1942年11月に始まった。11月3日に、エアハルト・ミルヒはJu 87の改良型を採用することに異論を唱え、完全に設計し直す必要があると問題提起した。しかし採用された設計は既存の設計を流用つつエンジンをJumo 211 Jに交換し、30mm機関砲を2門搭載したJu 87だった。また、この設計では1,000kg爆弾を自由落下式で運用する能力も持たせていた。さらに、低空での攻撃の際に地上の対空砲火から乗員を保護するための防御装甲をイリューシンIl-2シュトゥルモヴィークの防御装甲を参考にして装備させた。スツーカのエースであるハンス・ウルリッヒ・ルーデルは37mmFlak 18機関砲を2門搭載することを希望した[要出典]。この案は、翼下に機関砲をガンポッド方式に搭載し、ガンポッド内に砲弾を収めるBordkanone BK 3.7として採用された。この装備は20mm MG 151/20 機関砲に対抗する装甲を備えたソ連戦車でも十分に破壊可能な能力を持っていた。 このガンポッドはJu 87 D-1, W.Nr 2552に搭載され「グスタフのタンクキラー」と呼ばれた。 1943年1月31日に初飛行を行い、テストパイロットはハンス=カール・シュテップ大尉が勤めた。同じ対戦車攻撃機として運用されていたBK 7.5 75mm砲を搭載したJu 88 P-1が多くの問題を抱えていたこともJu 87Gの量産に拍車をかけ、1943年4月、最初の量産型Ju 87 G-1が前線に送り届けられた。2門の37mm機関砲は主翼下のガンポッドに搭載され、1門で12発、合計24発のタングステンの徹甲弾を搭載していた。この最初のG-1数機はオットー・ベイス中佐の率いる対戦車攻撃実験隊へ配属され、ブリヤレスク方面の戦闘で初陣を飾った。この初陣にはルーデル大尉も加わった。 本機はこの特徴的な機関砲から「大砲鳥」(カノーネンフォーゲル Kanonenvogel)の愛称で呼ばれ、ルーデルを筆頭とするドイツ空軍スツーカ・エースの手によって大きな成果を挙げたが、反面、無理に搭載した37mm砲による重量過多と安定性の欠如から、ルーデルをして「操縦が恐ろしく難しい機体」と言わしめた。 Ju 87 G-1 旧式の主翼の小さいD型の機体(D-5型以降は翼が延長されている)から改装され、ダイブブレーキを取り外されていた。 Ju 87 G-2 G-1型によく似ており、延長された翼を持つD-5型の機体から208機、D-3型から少なくとも22機生産された。 クルスクの戦いに投入されたG型として生産された機体はごくわずかだった。戦闘初日にG型として生産された機体に乗っていたのはルーデルだけだった。 戦闘前にかなりの数のD型に37mm機関砲が取り付けられG型として運用された。1943年6月に、RLMは20機のJu 87 G型を発注した。遅い飛行速度と大きな主翼による低い失速速度は、上陸用舟艇や、地上の戦車、トラックのような移動速度の遅い目標を攻撃するのに有効であった。
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