【ハンス・ウルリッヒ・ルーデル】(はんす・うるりっひ・るーでる)
Hans Ulrich Rudel(1916~1982)
第二次世界大戦時、Ju87急降下爆撃機を操って敗戦まで出撃を繰り返し、歴史上もっとも多くの戦車を撃破したとされるドイツ空軍の操縦士。
非常に卓越した操縦技術を持っていたが、その一方で社交性に乏しかった。
そのためか、1938年8月にJu87部隊に配属された後、偵察機部隊に配属され、1941年初頭までの間後方で訓練と教育に明け暮れた。
だが、バトル・オブ・ブリテンにおいてJu87が大きな損害を出したことを考えると、この時期に前線から遠ざかっていたことは幸運だったかもしれない。
彼が脚光を浴びるのは1941年の独ソ戦からで、高射砲弾で右足を失いながらも義足で出撃を続け、2530回出撃、30回撃墜され、5度負傷。
ソビエトの戦艦マラートを1.4t爆弾で大破着底させるなどの活躍を見せ、「最高のJu87パイロット」と賞賛された。
戦果は戦車519輛撃破、車輛800台以上撃破、砲150門以上撃破、戦艦・巡洋艦・駆逐艦各1隻撃沈、舟艇100隻以上撃破、航空機9機撃墜とずば抜けており、スターリンに「ソ連人民最大の敵」と言わしめ、賞金まで掛けられたという。
ドイツ軍最高位の戦功勲章「黄金ダイヤモンド柏葉剣付騎士鉄十字章」を授章された唯一の人物でもある。
戦後も実業家・登山家として活躍する一方、アメリカのフェアチャイルド社が後にA-10となる対地攻撃機を開発した際には同社に顧問として招かれ、開発陣にアドバイスを与えたともいう。
1982年12月18日バイエルンにて死去。葬儀では西ドイツ空軍のF-4「ファントム」2機が追悼飛行を行った。
ハンス=ウルリッヒ・ルーデル
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/14 01:28 UTC 版)
ハンス=ウルリッヒ・ルーデル(Hans-Ulrich Rudel, 1916年7月2日 – 1982年12月18日[6])は、第二次世界大戦中のドイツ空軍の軍人(航空機操縦員、幕僚将校)。
注釈
- ^ a b 『100%ムックシリーズ 完全ガイドシリーズ296 独ソ戦完全ガイド』晋遊舎、2020年。ISBN 978-4801814660。
- ^ "Known as the 'Eagle of the Russian Front,' Rudel made 2,530 raids against the Soviet Union in his Stuka dive-bomber." upi.com.
- ^ World War II Stuka pilots airforcemag.com.
- ^ Hans-Ulrich Rudel: Adler der Ostfront, 1971, National-Verlag, OBV, DNB, ISBN 978-3-920722-08-5
- ^ Hans-Ulrich Rudel: Eagle of the Eastern Front. historynet.com, 13 August 2018.
- ^ Hans-Ulrich Rudel Deutsche Digitale Bibliothek
- ^ “Mengele : the complete story”. p. 103. 2024年1月27日閲覧。
- ^ Nicholas Goodrick-Clarke, Black Sun, New York University Press, 2003, pp. 101–102
- ^ この時、母親から聞いたカーニバルの呼び物の落下傘の話に夢中になり、居ても経ってもいられず自宅の2階から落下傘代わりにした傘を持って飛び降り、文字通り「急降下」して地面に墜落し、片方の足を挫いている。自伝では、この時操縦士志望の意思が芽生えたという。ハンス=ルデル(高木真太郎訳)『急降下爆撃』朝日ソノラマ・1982年
- ^ ただし、後に実際に操縦してみることでシュトゥーカの優秀性を知ると、急降下爆撃隊にとどまることが幸福以上に感じられるようになったと、作家のピーター・C・スミスに『爆撃王列伝』(ピーター・C・スミス著)の中で語っている。
- ^ これは十二使徒になぞらえて12人の軍人に与えられる予定であったが、実際に授与されたのはルーデルだけであった。また、メルダースに授与した勲章より一段高い位にするため、柏葉飾りを金色にしている。
- ^ もっとも、ルーデルとヒトラーの関係は極めて高い信頼関係の上で成り立っていた。事実、ルーデルは『急降下爆撃』の中で、ヒトラーと会うたびに深い感銘を受けたと何度となく記述している。これは、ヒトラーが前線の将兵には親身に接したこと(ルーデルが黄金宝剣付柏葉騎士鉄十字章を受章した時も、ルーデルの妻と子供・両親や姉妹の安否を気遣う発言をしたり、授章式に参列していた各軍将官らを差し置いて一佐官のルーデルに作戦の見解を求めている)や日ごろ命令ばかり押し付けてくるゲーリングら空軍高官と違い、自分の意見をはっきりと述べれば承諾するヒトラーの態度が好印象を与えていたからだとされる。また、ヒトラー自身もルーデルを高く評価しており、大戦末期の1945年4月14日にヒトラー自ら「全ジェット部隊の指揮を取ってくれ」と頼み込み(ルーデルは「私の経験は急降下爆撃と戦車攻撃くらいのものです」と断っている。19日にも繰り返し要請があったが、第2地上攻撃航空団司令という責任からこれも拒み通している)、自身が自殺をするわずか3日前の27日にもベルリンに召喚する(これは着陸場所に指定された広場がソ連軍に占領されたため実現しなかった)など、死ぬ間際まで信頼を置いていた。
- ^ この時の言動は、敗戦国の軍人としては覇気にあふれていた。 (捕虜となり、すでに多数のドイツ将校が収容されている部屋に連行された時、ルーデルが来たことに気づいた将校達が一斉にナチス式の敬礼を行った。それを見た米軍通訳は「英語が話せるか。それからナチ式敬礼をするのはもうやめてもらいたいとのことだ」とルーデルに要求している。これに対しルーデルは「ここはドイツだ。英語が話せたって、ドイツ語以外はしゃべろうと思わない。どんな敬礼をしようと君らの知ったことではあるまい。われわれはドイツ軍人としての敬礼法を教わり、それをそのままやっているだけの話だ。シュトゥーカ隊は空の戦いで敗れはせぬ。われわれは囚人ではない。ドイツ兵はすべての戦闘に負けたものではなく、ただ物量の重圧に屈したに過ぎない。われわれがここに来たのも、ソ連軍地域にとどまるのを欲しなかったからだ。ま、そんなことはどうでもいい、身体を洗わせてもらいたい。それから何か食べ物が欲しい」と思うがままに言い切り、通訳を辟易させている。)
- ^ 米軍は東部戦線に従軍したすべての将兵をソ連軍に引き渡す協定についてルーデルは例外とした。Osprey Publishing刊 Aviation Elite Units 第13巻 "Luftwaffe Schlachtgruppen"の巻末より。
- ^ ルーデルは、その活躍からドイツ週間ニュースにもしばしば登場している。ルーデル最後の映像は、2月8日に右足を無くした直後の、病院のベッドに横たわるルーデルの姿を映したもので、ニュースではそうとは感じさせないが「早く飛びたい」とベッド上で気丈に振る舞うルーデルは重傷を負っている。そのルーデルに「ねぇ、もう少し待ちましょう」と諭す婦人はルーデルの当時の細君である。
- ^ 勲功メダルは、当時7人のハンガリー将士にしか与えられていないもので、ルーデルは8人目にして唯一の異国人の受賞者となった。
- ^ Peter Smith /STUKA AT WAR/Ian Allan Ltd.1972
- ^ Der Spiegel Volume 48/1950.
- ^ Der Spiegel Volume 13/1951.
- ^ 小林源文 (2009). Cat Shit One'80 VOL.2. p. 109-110. ISBN 4797352841
- ^ “Offensive Air Operations Of The Falklands War”. 2024年1月27日閲覧。
- ^ Uki Goñi (2003). The Real Odessa: How Perón Brought the Nazi War Criminals to Argentina. ISBN 9781862075528
- ^ Uki Goñi (2003). The Real Odessa: How Perón Brought the Nazi War Criminals to Argentina. p. 290. ISBN 9781862075528
- ^ Alan Levy (2006). Nazi Hunter: The Wiesenthal File. ISBN 9781841196077
- ^ Hamilton, Charles (1996). Leaders & Personalities of the Third Reich, Vol. 2. R. James Bender Publishing. p. 426. ISBN 0912138661
- ^ “Der Fall Rudel”. 2024年1月27日閲覧。
- ^ “Antitank Warfare Seminar Held in Washington, DC on 14-15 October 1976.”. 2024年1月18日閲覧。
- ^ Neitzel 2005, p. 160.
- ^ “Letzter Flug”. 2024年1月27日閲覧。
- ^ 一定の戦果を上げれば休暇が与えられるという特典があったと言われており、この戦果譲渡は休みたくないが故の行動であったとも言われている。
- ^ 「誰が破壊したのかわからない戦車」が多過ぎた事から、ルーデルが病院を抜け出している事が発覚、軍医に怒られた、と自伝の中に著している。
- ^ http://www.hawkertempest.se/AlexandreJaeg.htm
- ^ この事件の後、ルーデルには敵地への着陸を禁ずる異例の命令が出されたが、その後、アクロバットそのものの手法で敵地に不時着した僚機の乗員を救出している。
- ^ 英語版Wikipedia「Hans-Ulrich Rudel」のCombat duty during World War IIに伝記から抜粋した文章がある。
- ガーデルマンが撃墜したのか、私が急旋回したときにエンジンから発生した余波で墜落したのか。それは重要なことではない。私が装着しているヘッドフォンに混乱と悲鳴が混じったソ連軍の無線が突然入ってきた。ソ連軍に何が起きたのかを考えたが、それはとても重大なことではないかと思えた。そして、ソ連軍の無線から我々と交戦したのはソ連の英雄で有名な戦闘機パイロットであることがわかった。私は彼に名誉を与えるべきであろう。彼は優秀なパイロットであった。
- ^ 親友であったためか、ルーデルの自伝ではベッカーと名前で書かれたページは少なく、ほとんどがフリドリンと愛称で書かれている。
- ^ 当初はルーデルが地上部隊の指揮を執ろうとしていたが、司令部から右脚を負傷しているルーデルが指揮を執るのは無理があるとされたため、ベッカーが指揮を執っていた。
- ^ この被撃墜の一つに、1944年3月13日にレフ・シェスタコフ大佐によって撃墜されたもの(直後に大佐も撃墜される)も含まれている。
参考文献
- ^ アルゼンチン空軍にしても、紛争以前のアルゼンチン航空戦力は主にチリを仮想敵として長大な国境線での活動を前提に訓練を重ねており、NATO艦艇に対する長距離の海上航空作戦はそれまで一度も考慮されたことがなく、イギリス艦艇の弱点を突いた低空侵入からの攻撃は1982年4月~5月のわずかな期間にErnesto Horacio Crespo将軍がパイロットたちに身に着けさせた急ごしらえの戦術だった[1][2]。
- ^ この記事の執筆者は明らかにされなかったが、2021年に医師のClaus Tiedemannは記事の語り口から執筆者はほかならぬエルンスト・ガーデルマン本人ではないかと考察した[3]。記事においてルーデル像はガーデルマンとの関係から語り始められ、最後にはガーデルマンのルーデルに対する批判で締めくくられるためである。
ハンス=ウルリッヒ・ルーデル
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「蒼空の魔王ルーデル」の記事における「ハンス=ウルリッヒ・ルーデル」の解説
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固有名詞の分類
騎士鉄十字章受章者 | カール・デーニッツ ハインツ=ヴォルフガング・シュナウファー ハンス・ウルリッヒ・ルーデル オットー・キッテル フェルディナント・シェルナー |
ドイツ第三帝国の軍人 | ハインツ=ヴォルフガング・シュナウファー ミヒャエル・リッペルト ハンス・ウルリッヒ・ルーデル オットー・キッテル エルンスト・リンデマン |
第二次世界大戦のエースパイロット | ハインツ=ヴォルフガング・シュナウファー アレキサンダー・ブラシウ ハンス・ウルリッヒ・ルーデル ヤン・レズナク オットー・キッテル |
ドイツのパイロット | ゲルハルト・バルクホルン ハインツ=ヴォルフガング・シュナウファー ハンス・ウルリッヒ・ルーデル オットー・キッテル ヴァルター・エーザウ |
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