2003年-2006年:再びのカタルーニャ政府
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「カタルーニャ共和主義左翼」の記事における「2003年-2006年:再びのカタルーニャ政府」の解説
2003年11月16日の州議選(スペイン語版)において、ERCは23議席を獲得し、政権獲得のために過半数を確保するためにはERCとの連立が不可欠となるキャスティングボートを握る政党となった。数週間の後、CiU(保守民族主義政党)との連立が成るように思えたが、最終的にカタルーニャ社会主義者党(PSC)とカタルーニャ緑のためのイニシアティブ=カタルーニャ統一左翼との間で「進歩主義協定」(ティネイ協定と呼ばれた)を結ぶこととなった。 ERCはPSCのパスクアル・マラガイ(スペイン語版)首班の3党連立政権に加わり、党代表ジュゼップ=リュイス・カロッド=ルビーラが筆頭閣僚(Conseller en cap)に就任するなど自治政府閣僚6ポストを得た。ERCはそのほかに、教育(ジュゼップ・バルガリョー)、福祉・家族(アンナ・シモー)、商業・観光・消費(ペラ・アステーベ)、統括・公共行政(ジュアン・カラテール)、大学・研究・情報社会(カルラス・スラー)の5ポストを得た。また、アルネスト・バナックが自治州議会議長に選出された。 新政権が発足後まず取り組んだ課題は新しい自治憲章(スペイン語版)立案のための手続きを開始することであった。 自治政府の最初の重大な危機はアスケーラの党首ジュゼップ=リュイス・カロッド=ルビーラがパルピニャーでETAのリーダー2人と極秘裏に会談を持ったということによって引き起こされた。マラガイは当日国外公式訪問中であったため、筆頭閣僚のカロッド=ルビーラが実質的に州首相職代行を務めており、マラガイには無断であった。日刊紙『ABC』はスペイン国家のシークレットサービスからの情報を報道、メディア、社会全体に一大論争を巻き起こし、カロッド=ルビーラを州政府閣僚から罷免することによって、この一大政治危機の幕引きをすることとなった。ジュゼップ・バルガリョーがカロッドに替わって、筆頭閣僚に就き、ERCは政権内に留まり続けた。バルガリョーが就いていた教育担当閣僚にはERCのマルタ・シッドが就任した。 ERCは党のリーダーに対する不当な攻撃であると考え、2004年3月14日の総選挙において候補者リスト筆頭にカロッド=ルビーラの名をに乗せ、選挙に臨んだ。このことにより、ERCは選挙が有権者がカロッドの行動を支持するのかしないのかという国民投票のようなものになることを望んだ。 ERCの結果は目を見張るものであった。民主化以後の歴史において、ERCは下院に1議席を送るのがやっとであったのが、この年の3月は8議席を獲得、得票も194,715から652,196と飛躍的に増大、1977年の民主化選挙以降の選挙で歴史的な記録となった。 選挙後カロッドは下院議員の当選証書を拒否、ジュアン・プチャルコスが代わりに受け、スペイン首相指名投票ではホセ・ルイス・ロドリゲス・サパテーロを支持、予算その他の法案についても、社会労働党政権に協力した。 ERCのカタルーニャ自治州政府への参画並びにロドリゲス・サパテーロの社会労働党政権に対する支持は、保守派からの厳しい批判にさらされた。アンヘル・アセーベスやエドゥアルド・サプラーナなどの国民党所属政治家はサパテーロがERCの「独立主義者の脅し」に屈したと非難した。また、エル・ムンドやラジオ局COPEなどの多くのマスコミはERCの指導部に対し厳しい態度をとった。とくに、カタルーニャ政府要人のイスラエルへの公式訪問中にカロッド=ルビーラがテロリストグループのETAと話し合いを持ったことは大きな論争を巻き起こした。マドリードの社会労働党政府はERCを擁護する態度をとり続け、ERCはカタルーニャ自治政府の連立与党にとどまった。 2005年9月30日、ERCはカタルーニャ議会において新自治憲章草案に賛成票を投じ、同草案は州議会を通過した。 州議会での新自治憲章案可決の後、発効のためにスペイン国会に送られた。文言の削除は論争を引き起こし、ERCと自治州議会によって可決された草案に忠実である人々と自治政府の支持者たちの間で危機を誘発した。ERCは、2005年に州議会を通過した法案が、最終的にスペイン国会下院において可決された法案では大幅に文言が削除されたと受け止めた。このことは住民投票の日時が近づくにつれ、最終法案に対するERCの態度を変えさせることとなった。 2006年2月18日、ERCは「われわれは一つのネーションであり、自決権を持つ」(Som una nació, tenim dret a decidir)というスローガンの下でバルセロナにおいて様々な団体によって組織されたデモへの市民の参加を呼びかけ、自治憲章がカタルーニャが一つのネーションであることを認め、2005年9月30日に自治州議会で可決された自治憲章の条文を盛り込むことを要求した。さまざまな発表によるとこのデモには50万から100万もの人々が参加したとされ、ERCのリーダーたちが全員そろってデモに参加、カタルーニャが一つのネーションであることを明記しない自治憲章は支持しないことを明言した。 またERCの執行部は自治憲章案の財政に関する内容がカタルーニャにとって満足いくものではないため、最終案に賛意を示すことができない、また自治政府のバルセロナ空港整備事業に対する姿勢に譲歩するつもりのないことも付け加えた。 2006年4月20日自治州首相パスクアル・マラガイ(スペイン語版)は自治政府の閣僚のうち6人を更迭する事態に陥ったことを発表した。そのうち2人がERC所属であった。連立与党の3党間で話し合いがもたれ、合意が成立、マラガイが更迭した閣僚に代えて、ERCから新閣僚が出された。ジュアン・カラテールに替えてシャビエル・バンドレイが統括・公共行政担当に、カルラス・スラーに替えてマネル・バルセルスが大学・研究・情報社会担当に起用された。 一方新自治憲章案についてのERCの姿勢についての議論は党の活動の大きな部分を占め続けた。党の主要人物の間での議論の後、執行部は一般党員に党として住民投票には無効票を投じることを提案した:「削減された」自治憲章案については賛成はできないが、自分たちが作り上げた案に対しては反対票を投じることもできないためで、カロッド=ルビーラによると「およそ85%の党員」がこの提案に賛同を示したとされる。しかし、臨時党大会に参集した党員たちは執行部の提案を無視、党として「反対」の立場をとることを支持した。 2006年5月11日上院での新自治憲章案の可決(ERC議員は欠席)の翌日、同年6月18日に行われる住民投票でERCは反対票を投じる声明を行った後、州首相パスクアル・マラガイによってERCの全閣僚は罷免された。これに対してERCはカタルーニャ州行政において責任ある高い役職にあるものの辞職で応じた。罷免されたERCの6閣僚の後任はPSCから選ばれた。このティネイ協定の空中分解は政治危機を湧出し、パスクアル・マラガイ自治州首相は州議会を解散し、同年末に予定されていた州議会選挙の前倒しての実施へと追い込まれる可能性のある住民投票を実施する賭けに出た。 ERCは新自治憲章についての住民投票(スペイン語版)において「反対」を呼びかけた。党の選挙スローガンは「今は反対、カタルーニャにはもっと価値がある」(Ara toca no: Catalunya mereix més)というものであった。 2006年6月18日住民投票が行われ、賛成票73.90%で可決された。ERCは反対を呼び掛けたものの、それにこたえて反対票を投じたものは20.76%にすぎなかった。同日夜ジュゼップ・リュイス・カロッド=ルビーラはERCの提案が賛意を得られなかったことを認め、党の近年の数々の失策を真摯に受け止め、学ぶ必要性を表明した。 2006年10月8日にはERCの70年の歴史において初めて党員数10,000人を超えた。これは3党連立自治政府与党となる以前の4年前の党員数を倍増させたことを意味した。
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