軍用銃として
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スイス軍はSG510を汎用銃と見做していた。小銃班(Füsiliergruppe)においては、シュミット・ルビンK31小銃(ドイツ語版)、M31短機関銃、Lmg 25軽機関銃(ドイツ語版)を一括で更新した。 狙撃手にはKern & Co(ドイツ語版)製4倍スコープを搭載できるように改修を施したモデルが支給された。照射器付きの赤外線暗視装置も設計されていた。各種照準器および取付用改修を行った小銃は「軍団付資材」(Korpsmaterial)の一部とされており、兵士らの個人装備には含まれていなかった。 輸出用モデルは、20発弾倉を備え、二脚がなく、木製のハンドガードおよび銃床を備えていた。いくつか設計された派生モデルのうち、7.62x51mm NATO弾仕様のSIG 510-4は、チリやボリビアで採用された。輸出されたものの一部はイタリアのベレッタ社にてライセンス生産されたものだった。結局、大規模な輸出は行われなかった。 1950年代末、ドイツ連邦軍(西ドイツ軍)は、50丁の7.62x51mm仕様モデルを輸入し、仮名称G2としてセトメ モデルAなどと並行して試験を行った。50丁のうち、40丁がスイス軍仕様と同じゴム引き銃床およびハンドガードを備え、残る10丁は木製だった。しかし、当時既にNATO内でも軽量な銃器への支持が集まっており、突撃銃としては重量のあるSG510の採用は見送られることとなった。 冬用引き金を展開した状態 空砲と空砲専用弾倉 小銃擲弾(模擬弾)と空砲用弾倉を取り付けた様子、弾倉の底部に装填用ボタンが見える SG510用銃剣
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軍用銃として
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「ウェブリー=フォスベリー・オートマチック・リボルバー」の記事における「軍用銃として」の解説
ウェブリー社ではこの銃を騎兵用の理想的な拳銃だと考えていたものの、政府機関による公的な採用は行われなかった。ウェブリー=フォスベリーは全長が11インチ(280mm)以上、重量は銃のみでも44オンス(1,239g)と、当時の基準で見ても非常に大型の拳銃であり、扱いづらいと考えられたためである。ボーア戦争および第一次世界大戦では、前線の英軍士官らが私物として持ち込んだウェブリー=フォスベリーの.455口径モデルを使用した例が少数報告されている。これによれば、精密な部品と複雑な機構により構成される反動利用機構は泥や雨の影響による作動不良を受けやすく、戦地では使いづらかったという。また、コッキング方法も問題点として報告されている。通常の回転式拳銃のコッキングは銃を保持したまま親指で撃鉄を起こすだけで良いが、ウェブリー=フォスベリーの場合は片手で銃を保持しつつもう片手を使ってフレーム全体を後退させなければならなかった。又、デコッキング方法も同様に両手で慎重に行わなければならない等、手順が難しかった。 ウェブリー=フォスベリーは第一次世界大戦中の1915年から1918年の間に生産が中止された。総生産数は約4,750丁とされるが、そのほとんどが在庫となり、発売から38年後の1939年頃までウェブリー社のカタログに掲載されていた。 本銃はオートマチック拳銃が実用的なものとして普及するに従い廃れてしまったが、現用品として発売されていた際には売れ残ってしまったにも関わらず、その特異な機構と生産量の少なさから後に銃器コレクターに珍重され、非常に高価なコレクターアイテムとして知られるようになった。
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軍用銃として
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「ウィンチェスター M1895」の記事における「軍用銃として」の解説
1915年から1917年にかけて、およそ300,000丁のM1895が、手綱を握ったまま片手で射撃できる銃を求めていたロシア帝国軍の騎兵隊向けに製造され、これはM1895の製造が中止される1936年までの生産数のうちおよそ7割を占める。ロシア向けの7.62x54mmR弾仕様モデルは、レバーアクション式小銃としては珍しくクリップガイドが設けられており、モシン・ナガン小銃用の挿弾子を使用して装填を行うことができた。また、ロシア向けモデルは標準モデルよりも長いフォアグリップと着剣装置を備えていた。 こうしたロシア側からの要望に基づく再設計、とりわけクリップガイドの追加が想定よりも困難であったため、納入は当初予定よりも遅れている。また、ロシア側の銃器検査官が(ロシアに検査器が無いにも関わらず)ウィンチェスター社の検査器を用いることを拒否したり、ウィンチェスターがロシア向けに製造していた弾薬ではなくロシア製の弾薬を輸入した上でテストに用いることを要請したり、さらには銃床の木目の傾き具合など実用に全く無関係の「欠陥」を理由に返品を繰り返したことで、M1895の納入は一層と遅れた。ロシアが「欠陥」を指摘し返品したライフルは、後にアメリカの民生銃器市場にて販売された。ロシア帝国軍は、フィンランドやバルト諸国の部隊、特にラトビア狙撃兵師団(英語版)に対してM1895の大部分を支給した。また、少なくとも9,000丁のM1895が、1936年にソビエト連邦からスペイン内戦における共和派に供給されたことが知られている。 ロシア以外での軍用銃としての運用例は極めて少ない。アメリカ政府は米西戦争の際に.30アーミー弾(.30-40クラグ弾)仕様のモデルを10,000丁注文したが、前線に届く前に終戦を迎えている。これらのライフルには合衆国政府の財産であることを示すU.S.の刻印が機関部上に施されていたほか、銃床はM1895 リー・ネイビー(英語版)とよく似た形状のものに改められ、8.3125インチ (21.114 cm)のナイフ形銃剣が着剣できるようになっていた。大部分の部品には検査官、ケリー・S・ムース(Kelly S. Morse)が担当したことを示すK.S.M.の刻印があった。米比戦争では、第33義勇歩兵連隊向けにこれらのライフルのうち100丁ほどが支給された。1899年12月25日に終了した試験の報告書では、クラッグ・ヨルゲンセン・ライフルが軍用に適した小銃とされた。残されていた9,900丁のライフルは、M・ハーレー社(M. Harley Company)が買い取り、1906年にキューバへと送られた。そのうち一部はメキシコへと流れ、メキシコ革命の際にはパンチョ・ビリャ配下の兵士らに愛用されたという。 この時期、セオドア・ルーズベルトは.30アーミー弾仕様のM1895を個人的に購入している。.30アーミー弾仕様のモデルは、1896年にニューヨーク州兵による審査にも参加したが、サベージ M1895(英語版)に次ぐ2位に留まった。マガジンカットオフ機能とマガジンカウンターを備えない点が短所として指摘された。ウィンチェスター社は審査結果に強く異議を唱え、サベージ社に有利に仕組まれていたのだと主張した。その後の政治的な論争を経て、サベージM1895の契約は取り消されることになった。
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