軍医時代
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東京帝国大学医科大学を卒業する直前、1887年(明治20年)6月4日、陸軍三等軍医(少尉相当)に任官して陸軍省医務局に出仕。同年8月18日東京鎮台陸軍病院治療課副医官に転じ、同年11月15日陸軍戸山学校附を命じられる。1889年(明治22年)6月24日福岡衛戍病院附となり、同11月10日陸軍二等軍医(中尉相当)に進級。 ドイツ留学期 1890年(明治23年)2月24日付にて福岡衛戍病院附を免じられ、翌25日ドイツへの留学を命じられる。ドイツでは、大学の先輩で寮生活を共にした北里柴三郎の世話によりロベルト・コッホ(Heinrich Hermann Robert Koch、1843年-1910年)に師事し、細菌学・伝染病を研究した。また、ベルリンでは京都欧学校時代の恩師ゼッケンドロフに公私ともに世話になる、同時期に留学した後藤新平とよく行動を共にした。1892年(明治25年)12月4日、陸軍一等軍医(大尉相当)に進級。 日本帰国後 1893年(明治26年)6月8日、日本に帰国。同6月9日付にて陸軍軍医学校教官 および森林太郎(森鷗外)校長の副官を命じられる。また、同年11月、岡田は小池正直・森林太郎・菊池常三郎・平山増之助と共に陸軍病院建築法審査委員に任じられた。 1895年(明治28年)1月11日、清国派遣軍内の伝染病調査のため清国に派遣される。1896年(明治29年)、「衛生学科教科書(陸軍軍医学校)」作成に森校長の副官として携わる。1897年(明治30年)10月11日、陸軍三等軍医正(少佐相当)に進級。また、陸軍軍医学校副官の任を解かれ同校教官となり、併せて陸軍衛生会議議員兼広島軍用水道敷設部事務官を命じられる。1899年(明治32年)、当時軍医監であった小池正直が3月に授与されたのに続き、7月24日学位(医学博士)を授けられた。 1901年(明治34年)11月3日、陸軍二等軍医正(中佐相当)に進級し、同年12月8日台湾守備混成第二旅団司令部附兼台中衛戍病院病院長に転じる。1904年(明治37年)4月2日、軍医学校教官を命じられる。同年7月25日陸軍一等軍医正(大佐相当)に進級。以降、清国に派遣の後陸軍予備病院御用掛を命じられ、その後軍医学校教官に復す。 1904年(明治37年)12月、広島予備病院御用掛を命じられ、広島予備病院第四分院伝染病患者病理試験および細菌検査主任に就任。直後より軍医小久保恵作が院長を勤める同第三分院に戦地帰還脚気患者を収容し脚気精密検査を開始した。 1905年7月、広島予備病院内に脚気病調査委員会が設けられ、岡田が委員長に、小久保恵作三等軍医正・片山誠治二等軍医・日本赤十字社下方正信が委員に任命された。10月脚気調査のため奉天に派遣される。 岡田が軍医学校へ異動後軍医小久保恵作との連名で『脚気病調査第一回略報』(東京医事新誌1428)にて脚気の病原菌発見が発表された。同年12月軍医都築甚之助も脚気病原菌発見を発表し、岡田・小久保両軍医が発見した菌と比較したところ、三名が発見したとする菌全てが別物であることが判明。岡田および都築は脚気病原菌発見を自己否定するに至った(国内では、引き続き脚気伝染病説と中毒説の勢いが強く、脚気の原因をめぐる混乱と葛藤は1920年代の「ビタミン欠乏」説の確定まで続いた。日本の脚気史参照)。
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軍医時代
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1941年(昭和16年)10月軍医として応召、陸軍軍医見習士官に任官し、フィリピン、ラバウルを経てブーゲンビル島の第76兵站病院に勤務する(1942年(昭和17年)9月、軍医少尉任官。最終階級は陸軍軍医大尉)。下肢にできる潰瘍に有効な木の葉を現地住民から教わり、部隊の兵士がこの潰瘍を悪化させるのを防いだ。また道明は、灸治療の縁で秋永参謀長から得た南方の植物に関する書物に記載されていたサゴヤシのデンプンに着目した。現地住民からサゴヤシのデンプンを分けて貰う際、現地住民が赤い腰布を巻いているのを真似て木綿を赤チンで染めたものをお礼として渡し、後にはサゴヤシからデンプンを採る方法を現地住民から習得して、これを団子にして部隊にふるまい多くの兵士を餓死から救った。道明は、板倉武(元東京帝国大学医学部第一内科学教室講師)が所長を務める同愛記念病院内の東亜治療研究所(同研究所は国費を得て設立、のちに東方治療研究所と改称)の所員として招聘されていたことから、板倉武は道明を内地勤務に変更するよう東條英機首相に陳情したが、この陳情は受け入れられなかった。1946年(昭和21年)3月復員。道明は1973年(昭和48年)にブーゲンビル島を訪れ、当時世話になった村にオルガンを寄贈している(この様子は1973年7月NHKにて放映)。また後に、当時の従軍記録を『ブーゲンビル島兵站病院の記録:元第76兵站病院付軍医』(1976年、医道の日本社)として著している。
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