佐々の渡米と化合物DECとの出会い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 10:37 UTC 版)
「八丈小島のマレー糸状虫症」の記事における「佐々の渡米と化合物DECとの出会い」の解説
八丈小島から帰った佐々は、軍用機に乗ってロックフェラー財団の留学生として1年間のアメリカ留学へ向かった。戦後初のロックフェラー財団留学生に佐々が選ばれた理由は、帝国海軍軍医時代の熱帯病に関する研究成果と、ペナン島で養われた英会話能力の高さによるものであった。1948年(昭和23年)当時の日本は連合国軍最高司令官総司令部の占領下で外交権を失っており、アメリカに駐在する日本の外交官も存在しない状況であった。佐々のパスポート番号は80番であり、戦後の日本政府が日本国外へ渡航を認めた日本国籍者は佐々の前には79人しかいなかったということになる。西海岸のサンフランシスコから入国し、留学受け入れ先のジョンズ・ホプキンズ大学のある東海岸のボルチモアまでは長距離バスを乗り継いで移動した。 ジョンズ・ホプキンズ大学では公衆衛生学の修士コースを8か月間学ぶことになった。ともに学んだ同級生にはアメリカ海軍の軍医出身者もおり、彼らは日本人の佐々に興味を持ち、朝晩の下宿と大学の間を車で送迎してくれたり、夜にはビールを飲みながら日本のマラリア対策やツツガムシ病患者などの話を意見交換したりと、昔の敵意などすっかり忘れて打ちとけ合ったという。 マラリアに関する知見の高さから佐々は4か月を1クールとするマラリア講座の講師をつとめ、アメリカ軍医の卵に予防方法や蚊の飼育と判別を教えることになった。佐々自身もペナン島などで培ったマラリアに関する経験や知識には自信を持っており、日本帰国後は伝研でマラリア研究を継続していきたいと考えていたが、ジョンズ・ホプキンズ大学での留学生活を続けている間に、アメリカが莫大な予算をつぎ込んでマラリアの研究を行っていることを知り、終戦直後の日本の実情ではとても太刀打ちできないと思い始めていた。 しかし、その一方でフィラリアに対するアメリカの関心が著しく低いことも見えてきた。当時、蚊が媒介する感染症のうち、マラリア、フィラリア、デング熱、日本脳炎の順に重要とされており、このうち日本国内ではフィラリアと日本脳炎が大きな問題とされ、日本脳炎については戦前から伝研による研究調査が進んでいた。当時32歳の佐々は、それならば自分が進むべき道はフィラリアの研究しかないと決意する。 講師や研究の合間を縫って、佐々は膨大な書籍が所蔵されている大学図書館で、世界のフィラリアに関する文献を探し出し片端から読み漁っていった。特に日本にはない中南米のフィラリア文献は貴重であった。また、ジョンズ・ホプキンズ大学にはバンクロフト、マレーなどのリンパ系フィラリア虫だけでなく、オンコセルカ(英語版)、ロア糸状虫(英語版)などリンパ系以外のヒトに感染するフィラリア虫、ミクロフィラリアの標本が所蔵されており、佐々は何度も顕微鏡を覗いて観察し各虫を判別できるようになっていった。 ある日、佐々はアメリカの薬学誌の中に、「DECという化合物質を動物実験したところ、フィラリアに有効だった。」という記事を見つけ詳しく読んでみると、「1947年(昭和22年)、アメリカのヘウイットという医師のグループが、コットンラットという野ネズミに寄生するフィラリアに対して、DECを経口投与すると、ミクロフィラリアが急激に減少したことが確認された」と書かれていた。 DECとはクエン酸ジエチルカルバマジン、Di-Ethyl-Carbamazine-citrateの略で、佐々は初めて聞く薬品名であった。早速調べてみると日本にはないらしく、仮に持ち帰れても薬価基準が日本とアメリカでは異なるため、適用は基本的に許可されない。ジョンズ・ホプキンズ大学の関係者に聞いてもDECはなかったが、ミクロフィラリアが検出された患者に対して何も投与できず対症療法を施すしかなかった従来の現状を考えれば、動物実験であるにせよミクロフィラリアを減少させる薬品が存在することは朗報であった。佐々はもしかしたら小島のバクを治せるかもしれないと期待し、DECの構造式や合成法などの研究を始めた。こうしてアメリカ留学の1年間は過ぎていき、1949年(昭和24年)8月、佐々は横浜港へ入港する客船で、日本へ帰国した。
※この「佐々の渡米と化合物DECとの出会い」の解説は、「八丈小島のマレー糸状虫症」の解説の一部です。
「佐々の渡米と化合物DECとの出会い」を含む「八丈小島のマレー糸状虫症」の記事については、「八丈小島のマレー糸状虫症」の概要を参照ください。
- 佐々の渡米と化合物DECとの出会いのページへのリンク