佐々での2年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/07 15:57 UTC 版)
舜麟の助言で江永村(後の東彼杵郡折尾瀬村上下吉福免字江永、現・佐世保市江永町)の福本喜右衛門の元を訪れた民吉は、喜右衛門の従兄弟でもある松浦郡市ノ瀬村(現・長崎県北松浦郡佐々町)の福本仁左衛門への紹介を受ける。まず佐々村(現・北松浦郡佐々町)の東光寺を訪れ、寺僧とともに皿山に向かった民吉が雇われることとなったのは12月28日のことであった。 明けて文化2年(1805年)、雇われた民吉は土造りの手伝いから始め、半年を経た頃には1日に茶碗を300個ほど作れるようになっていた。なお『染付焼起源』には、仁左衛門が民吉の仕事の念入りなのを見て「尾州(尾張)の窯職に相違ない」と見抜き、「石や土・薪などが豊富であれば移り住みたい」と打ち明けたという話が残されており、三川内の二の舞を避けるためか、当初ここでは尾張から来たことを明かしていなかったと考えられる。 同年の秋、仁左衛門の息子(嫡子の新左衛門?)が伊勢参りのため佐々を留守にしていた時期に窯入れが行なわれたことで釉薬の調合なども知ることが出来た民吉は、冬安居のために東光寺を天中が訪れた際に、仁左衛門に暇を出してもらえるように頼み込み、仁左衛門も最後には同意することとなった。1年間の御礼奉公ののち、民吉が福本家を離れたのは文化4年(1807年)1月7日であったという。
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