自民党内の動き(1998年-2000年)
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「青少年有害社会環境対策基本法案」の記事における「自民党内の動き(1998年-2000年)」の解説
2000年(平成12年)の自民党による「青少年社会環境対策基本法案」の背景には、1997年(平成9年)に起こった神戸連続児童殺傷事件と、中曽根弘文の2つの要因がある。事件発生時、自民党政審会長だった中曽根は、第142回国会予算委員会において、少年犯罪多発の要因がテレビやアニメ、ゲームなどであると主張、小里貞利総務庁長官に対して「青少年保護法」を制定しろと要求したのが、「法案」の動きのきっかけである。中曽根の実際の質問は以下のようなものだった。 .mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}次に、青少年の保護法関係を質問いたします。 少年犯罪の多発の原因はいろいろありますけれども、少年たちの情報源となっているテレビや雑誌、アニメあるいはテレビゲームなどの影響はかなり強いものと思います。日本PTA全国協議会が行いましたアンケートでは、八八%の父兄がテレビやマスコミの情報が悪影響を及ぼしていると回答しております。これら有害なものから子供たちをいかにして守るか、これもみんなで真剣に考えなければなりません。 現在、各都道府県におきまして青少年保護育成条例等を制定していますけれども、その状況はどういうふうになっていますでしょうか。総務庁長官、お願いします。 各地の市町村議会で、青少年保護法の制定を求める決議が今次々と採択をされております。私の地元の群馬の町村からもかなりの数の要請が来ております。規制項目も各省庁の所管にまたがるものでありますので工夫が必要とは思いますけれども、こうした青少年問題に関する重要な対策は、都道府県にすべてお任せするのではなくて、政府が青少年保護の基本的な理念や目的、方針などを示すと同時に、規制項目のうち重要なものかつ共通したものについては一元化をして青少年保護法というようなものを制定すべきと考えております。各国にもこのような法律があるようでございますけれども、諸外国の例なども調査されまして、参考にしながら青少年保護法の制定にぜひ取り組んでいただきたいと思います。 総務庁長官のお考えを再度お聞かせください。 基本法と保護法と二つ考え方がありますし、両方盛り込んだものも考えられます。基本法は理念とかそういうものが中心となると思いますが、これだけ子供のいろいろな事件が多発しておりますので、今申し上げたように各県でばらばらになっております有害図書や有害玩具や有害薬品等に対する規制というもの、これは私はある程度国で一元化して統一して規制なりをすべきと、そういうふうに思っております。検討していただけるということでございますが、ぜひよろしくお願いをいたします。 小里総務庁長官の回答は「私は、先ほど議員から御指摘がありまするように、保護育成に関する基礎的な要諦あるいは事項につきましては、何らかの形できちんと整理を進める方向で検討はしてみたい、さように思っておる次第でございます。」というもので、制定すると確約はしないものの、検討を約したので自民党は「青少年保護育成法案」作成に乗り出すことになった。 政府は、この問題について青少年問題審議会(青少審)に諮問、青少審(石川忠雄会長)は1999年(平成11年)7月22日に答申「『戦後』を超えて―――青少年の自立と大人社会の責任」をまとめた。この答申では、有害環境の対策などを含んだ青少年育成基本法の制定を提言していた。さらに、この答申を根拠にして、中曽根文弘の肝いりで、参院自民党の政策審議会の中に青少年問題検討小委員会が設置された。 このパターン(規制推進派が政府に働きかけ、政府は中青協(中央青少年問題協議会、青少審の前身)に諮問して「青少年保護育成基本法」を推進せよとの答申を出させ、それを理由にして法案を作成する、または検討を行うというパターン)は、1954年(昭和29年)以来何度も繰り返されてきたものである。 法案作成はこの「検討小委員会」において秘密裏に進められたが、代表だった中曽根が途中で文部大臣に就任したため、中曽根が抜け、その代わりに石井道子(元環境庁長官、故人)、大島慶久(2004年に政界から引退)が責任者になった。 最初の法案は2000年(平成12年)4月にまとまった。「検討小委員会」が4月21日付きで「青少年有害環境対策法(素案骨子)」を立案、関連する10省庁を集めて趣旨説明を行った。この時に一部の官庁が関連業界団体に意見を求めたことで、法案作成が進んでいることが世間に露呈した。 「検討小委員会」は「素案骨子」をもとに各省庁の意見を聞いて修正し、2000年(平成12年)5月に「青少年有害環境対策法(素案)」をまとめたが、「有害環境」という言葉はイメージが悪いという意見があったので、この言葉を省き、同年9月に「青少年社会環境対策基本法(未定稿)」に変わった。 自民党が本格的に法案提出の準備を始めるのは、同年11月のことである。2000年(平成12年)11月16日、自民党の内閣部会に「青少年を取り巻く有害な環境対策の推進に関する小委員会」を設置、委員長には田中直紀が就いた。 法案第21条には、内閣総理大臣が監督する公益法人「青少年有害社会環境対策センター」の設置が義務付けられており、法案が成立すれば「センター」が稼働する予定になっていた。この「センター」は苦情処理、調査・情報収集、関係事業者・団体への指導を行うことになっていたが、それ以外の業務も行うことが予定されていた。具体的に言うと、業界団体の自主規制の実効性がないと政府が判断すれば総理大臣の名前で勧告を行い、従わない場合には名前の公表を可能にする、という業務が含まれていた。これは、青少年の健全育成を名目にして政府が表現物の内容に干渉すること、つまり「未成年に対する販売規制」を越えて「表現規制」に踏み込むことを意味し、危険な存在だった。 「小委員会」は、このセンター業務の委託先を探していたが、それが見つからずに困っていた時に総務庁から社団法人青少年育成国民会議を紹介され、委員長の田中直紀が内々に「国民会議」に委託を打診、「国民会議」側も法案に賛成しており「センター」指定法人に指名されることを望んだ。「国民会議」は2001年(平成13年)1月の理事会でこの問題を了承し、同月に「国民会議」が開催した「青少年と社会環境に関する中央集会」の中で上村文三副会長が「青少年社会環境対策センター」の指定法人を「国民会議」が引き受ける意向だと表明した。 しかし、その後、内閣府からセンター請負に関して「国民会議」に打診があった時、「国民会議」側が人員の補充や年間予算の試算額として10億円を提示すると、緊縮財政下でそんな予算がつくわけがないと言われたということで、果たして法案成立に現実味があるのか疑問視する声もあった。 一方、この法案とは別の動きとして、政府は2001年(平成13年)10月に「少年を取り巻く有害な環境の整備に関する指針」というガイドラインを作成し、これを根拠にして出版・テレビ業界に「行政指導」という形で規制を強める。その後も、このガイドラインは改訂され続け、「青少年育成推進要綱」、「青少年育成施行大綱」と変遷する。
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