椎名裁定とは? わかりやすく解説

椎名裁定

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/05 22:16 UTC 版)

椎名裁定(しいなさいてい)は、1974年自由民主党副総裁椎名悦三郎が次期総裁三木武夫を指名したことを指す。


  1. ^ 奥島.
  2. ^ 城山三郎「賢人たちの世」p.220
  3. ^ 城山三郎「賢人たちの世」p.221
  4. ^ 椎名の初当選は第27回衆議院議員総選挙(1955年)であり、椎名裁定の時点では当選7回であった。
  5. ^ 元総理の岸信介佐藤栄作や総理経験者以外にも前尾繁三郎西村英一保利茂等も三木より後の初当選だが、三木より年長の現役衆議院議員だった。


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椎名裁定

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 15:50 UTC 版)

椎名悦三郎」の記事における「椎名裁定」の解説

詳細は「椎名裁定」を参照 1974年7月第10回参議院議員通常選挙自民党不調に終わり三木武夫副総理福田赳夫蔵相田中角栄首相政治手法批判して辞任し田中内閣苦況追い込まれた。椎名田中党改革進言した。田中はこの提案受入れ8月1日椎名会長とする「党基本問題及び運営に関する調査会」(椎名調査会)が設置された。そこへは各会派有力者参加して党の改革議論が行われた。田中金脈問題により、田中11月退陣表明する田中後継総裁指名椎名委任した椎名総裁選行わず話し合いによる決着目指した。12月1日椎名大平正芳福田赳夫といった大派閥の領袖ではなく少数派閥の三木武夫を新総裁指名する裁定出した(椎名裁定)。この裁定三木自身が「青天の霹靂だ」と語ったように驚きをもって迎えられた。ただし三木中曽根康弘はこの裁定事前に知っていたという説も根強い世論は「金権 田中」から代わるクリーン三木」を歓迎した

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椎名裁定

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 14:48 UTC 版)

三木武夫」の記事における「椎名裁定」の解説

「椎名裁定」も参照 退陣決意した田中は、10月26日椎名副総裁に対して一時的に内閣預かってもらえないかと打診していた。金脈問題で傷ついた田中椎名政権預け一時的な退却行いその上で登板を行う腹積もりであった椎名としても政権獲得への意欲がないわけではなかったが、健康問題もあって田中要請断り調整役に回ることになった。それでも田中11月11日内閣改造椎名後継含み副総理にしようと考えたが、総裁公選での総理・総裁就任目指す大平外相反対潰されていた。田中は自らの後継について全く布石を打つことが出来ないまま、フォード大統領アジア歴訪終えて帰国した11月26日退陣表明した田中後継総裁候補としては、三木福田大平名乗りを上げていた。三人のうち田中派大平派の数で有利となる大平総裁公選での選出主張し数的に劣勢であった三木福田話し合い選出主張した。特に三木公選選ばれる可能性はほぼ皆無であり、話し合い選出賭けるしかなかった。三木福田大平の間では後継総裁について直接交渉行われた福田大平二度亘って会談行い、後の会談では永野重雄日本商工会議所会頭宅で、福田大平連携を願う永野交えて行われた。また大平三木宅と同じ敷地内同居していた娘の紀世子宅の方からひそかに三木訪ね会談行った。しかしいずれの会談物別れ終わり三木福田大平立候補者間での解決出来なかった。 ところで調整役となった椎名派閥烏合の衆であると考えており、烏合の衆頂点に立つ派閥領袖は、総裁選という草競馬行っていると見なしていた。そこで椎名灘尾弘吉保利茂前尾繁三郎といった長老議員による暫定政権樹立して自民党立て直しその後本格政権樹立するという構想描いていた。そして後継総裁をめぐる自民党内の動き活発化する中で、椎名による暫定政権案が浮上した。しかし11月29日椎名三木福田大平中曽根実力者個別会談を行う中で、椎名大平に対して椎名暫定政権可能性示唆したところ、大平椎名発言不快感示し、「行司がまわしを締めた」と、椎名政権獲得色気見せだしたことをリークした。 このような中で、三木話し合いによる総裁選びで自らが選ばれるべく動いていた。7月副総理環境庁長官辞任した後、党近代化訴え続け田中個人への批判控えていた。また田中辞意表明後、民社党佐々木良作ひそかに三木邸を尋ね中道新党結成提案していたなど、民社党との連携工作具体化しつつあった。 椎名による暫定政権案は大平リークにより潰された。この段階で椎名保利茂による暫定政権決意するが、保利指名した場合暫定政権案が潰されることを分かった上で保利指名し結局は椎名お鉢回ってくることを狙ったと見られるため、保利暫定政権案も断念することになった結局椎名長老による暫定政権ではなく三木福田大平中曽根という実力者の中から後継指名することになった11月30日椎名三木福田大平中曽根との5者会談の席で、まず後継総裁候補実力者4名しかいないことを告げた上で中曽根進行役に指名した、5者会談では幹事長財務委員長経理局長を総裁派閥から出さないことなどを確認した。そして椎名は翌12月1日後継総裁について結論出したい話した最終的に椎名三木指名決断する理由としては、まず三木池田内閣時代党組織調査会長として三木答申まとめており、田中内閣閣僚辞任して近代化訴えていて、クリーン三木こそ金権問題退陣追い込まれ田中後始末を行うにふさわしい人物考えられたことが挙げられる続いて三木当時船田中に次ぐ37年余り議員経験有しており、椎名暫定政権首班として考えていた灘尾弘吉保利茂前尾繁三郎らよりも議員経験長かった長老による暫定政権案が潰され椎名にとって、三木長老議員準じる存在となり得た。 また実際問題として三木以外指名できる人物自民党内に存在しなかったことも理由として挙げられる。まず中曽根はこの時点では総裁就任を狙わずに調停役となっていた。世論激し批判浴びて退陣追い込まれ田中親し大平指名することは、田中亜流政権指名したと見なされて自民党にとって大きなマイナスとなるのは明らかであった。また大平椎名暫定政権案をリークしたことは椎名心象害していた。一方福田田中激しく対立しており、三木とは異なり公然と田中批判していた。そのような福田指名すれば田中派大平派の強い反発避けられなかった。また椎名福田との間には1962年昭和37年)の岸派分裂時からの確執があり、まだ尾を引いていた。そして党内激しつばぜり合いが続く情勢下で総裁公選強行すれば、福田大平らの泥仕合となることが明らかであり、自民党更なるイメージダウン、そして分裂の危機をも呼び寄せかねなかった。暫定政権案がことごとく流れてしまった上、4人の実力者の中で残された人物は三木であり、総裁公選行い得ない状況では三木指名するしかなかった。 三木少数派閥の領袖であり、その党内基盤脆弱さ逆に幸いした面もある。椎名田中三木ならば組しやすい判断したのである最後に先述のように三木野党とりわけ民社党との連携の話が具体化しつつあった。党分裂芽を摘むためにも三木指名効果的であるといえた。 11月30日の夜、椎名産経新聞記者藤田義郎対し三木指名裁定文の起草要請した藤田三木邸を訪れ明日椎名による裁定三木指名となることと裁定文の起草依頼されたことを伝えた三木は「藤田君、その裁定文は後世に残る天下名文にしなければならん。ボクが書く。徹夜してでもボクが書く。」といい、12月1日の朝に三木藤田案文突き合わせた上で草案としてまとめ、最後に椎名添削受けて裁定文とすることになった。この時の椎名添削したのは、三木藤田に「政界最長老三木武夫」という語句をつけてくれという要望入れた原稿を、椎名気づき、「最長老」の「最」の字を削った箇所だという。藤田回想によれば三木原稿ミミズが這ったような文字であったという。そして日付けが変わる頃、三木は妻睦子子どもたち寝室呼び寄せ、「大変なことになるかもしれない」と告げた12月1日前日引き続き開催された5者会談冒頭椎名三木後継推薦する裁定文を読み上げるとすぐに席を立った裁定受けて三木は「青天の霹靂」と語り意外な結論であるとしたが、実際事前に自らが指名されることを知っていた。裁定直後三木福田会談して「三木内閣は君との共同内閣のつもりであり、経済問題一任したい」と切り出し福田から裁定受け入れ確認した話し合い決着主張していた福田に椎名裁定を拒絶する大義名分はなかった。中曽根派12月1日裁定受け入れ表明し佐藤栄作ら党顧問水田派石井派などの中間派も裁定受け入れ明らかにした。一方田中派大平派は椎名裁定をすんなり受け入れようとはしなかった。しかし田中派領袖である田中金脈問題混乱きっかけとなったこともあり、裁定強く反発することは出来なかった。また先述のように党内基盤の弱い三木田中にとって組しやすい相手思われた。一方大平はあくまで公選での総裁選出にこだわり役員会総務会という党の正式な機関承認され上で自らの結論を出すとした。しかし三木派福田派中曽根派早々に裁定受け入れ明らかにし、中間派や党顧問、そして田中裁定受け入れ意向を示す中では大平抵抗続けることは出来ず、椎名裁定を受け入れざるを得なかった。 なお、椎名裁定に対して二階堂進幹事長党三役は、裁定について事前に全く相談受けておらず党機関軽視であると猛反発し、12月2日には辞任するとした。しかし党三役各方面から慰留され、結局辞任はしなかった。こうして椎名裁定に対す自民党内の反発沈静化し、三木田中後継総裁となることが確定した三木12月4日開催され自民党両院議員総会において、全会一致第七自由民主党総裁選出され党役員人事組閣着手することになった

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