椎名裁定
椎名裁定
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 15:50 UTC 版)
詳細は「椎名裁定」を参照 1974年7月の第10回参議院議員通常選挙で自民党は不調に終わり、三木武夫副総理と福田赳夫蔵相は田中角栄首相の政治手法を批判して辞任し、田中内閣は苦況に追い込まれた。椎名は田中に党改革を進言した。田中はこの提案を受入れ、8月1日に椎名を会長とする「党基本問題及び運営に関する調査会」(椎名調査会)が設置された。そこへは各会派の有力者が参加して党の改革議論が行われた。田中金脈問題により、田中は11月に退陣を表明する。田中は後継総裁の指名を椎名に委任した。椎名は総裁選を行わずに話し合いによる決着を目指した。12月1日、椎名は大平正芳、福田赳夫といった大派閥の領袖ではなく、少数派閥の三木武夫を新総裁に指名する裁定を出した(椎名裁定)。この裁定は三木自身が「青天の霹靂だ」と語ったように驚きをもって迎えられた。ただし三木や中曽根康弘はこの裁定を事前に知っていたという説も根強い。世論は「金権 田中」から代わる「クリーン三木」を歓迎した。
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椎名裁定
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 14:48 UTC 版)
「椎名裁定」も参照 退陣を決意した田中は、10月26日に椎名副総裁に対して一時的に内閣を預かってもらえないかと打診していた。金脈問題で傷ついた田中は椎名に政権を預け、一時的な退却を行い、その上で再登板を行う腹積もりであった。椎名としても政権獲得への意欲がないわけではなかったが、健康問題もあって田中の要請を断り、調整役に回ることになった。それでも田中は11月11日の内閣改造で椎名を後継含みで副総理にしようと考えたが、総裁公選での総理・総裁就任を目指す大平外相の反対で潰されていた。田中は自らの後継について全く布石を打つことが出来ないまま、フォード大統領がアジア歴訪を終えて帰国した11月26日に退陣を表明した。 田中の後継総裁候補としては、三木、福田、大平が名乗りを上げていた。三人のうち田中派、大平派の数で有利となる大平は総裁公選での選出を主張し、数的に劣勢であった三木、福田は話し合い選出を主張した。特に三木は公選で選ばれる可能性はほぼ皆無であり、話し合い選出に賭けるしかなかった。三木、福田、大平の間では後継総裁について直接交渉も行われた。福田と大平は二度に亘って会談を行い、後の会談では永野重雄日本商工会議所会頭宅で、福田と大平の連携を願う永野を交えて行われた。また大平は三木宅と同じ敷地内に同居していた娘の紀世子宅の方からひそかに三木を訪ね、会談を行った。しかしいずれの会談も物別れに終わり、三木、福田、大平の立候補者間での解決は出来なかった。 ところで調整役となった椎名は派閥を烏合の衆であると考えており、烏合の衆の頂点に立つ派閥領袖は、総裁選という草競馬を行っていると見なしていた。そこで椎名は灘尾弘吉、保利茂、前尾繁三郎といった長老議員による暫定政権を樹立して自民党を立て直し、その後に本格政権を樹立するという構想を描いていた。そして後継総裁をめぐる自民党内の動きが活発化する中で、椎名による暫定政権案が浮上した。しかし11月29日、椎名が三木、福田、大平、中曽根の実力者と個別会談を行う中で、椎名が大平に対して椎名暫定政権の可能性を示唆したところ、大平は椎名の発言に不快感を示し、「行司がまわしを締めた」と、椎名が政権獲得に色気を見せだしたことをリークした。 このような中で、三木は話し合いによる総裁選びで自らが選ばれるべく動いていた。7月に副総理兼環境庁長官を辞任した後、党近代化を訴え続け田中個人への批判は控えていた。また田中の辞意表明後、民社党の佐々木良作がひそかに三木邸を尋ね、中道新党結成を提案していたなど、民社党との連携工作も具体化しつつあった。 椎名による暫定政権案は大平のリークにより潰された。この段階で椎名は保利茂による暫定政権を決意するが、保利を指名した場合、暫定政権案が潰されることを分かった上で保利を指名し、結局は椎名にお鉢が回ってくることを狙ったと見られるため、保利暫定政権案も断念することになった。結局椎名は長老による暫定政権ではなく、三木、福田、大平、中曽根という実力者の中から後継を指名することになった。11月30日、椎名は三木、福田、大平、中曽根との5者会談の席で、まず後継総裁候補は実力者4名しかいないことを告げた上で中曽根を進行役に指名した、5者会談では幹事長、財務委員長、経理局長を総裁派閥から出さないことなどを確認した。そして椎名は翌12月1日に後継総裁について結論を出したいと話した。 最終的に椎名は三木の指名を決断する。理由としては、まず三木は池田内閣時代に党組織調査会長として三木答申をまとめており、田中内閣の閣僚を辞任して党近代化を訴えていて、クリーン三木こそ金権問題で退陣に追い込まれた田中の後始末を行うにふさわしい人物と考えられたことが挙げられる。続いて三木は当時船田中に次ぐ37年余りの議員経験を有しており、椎名が暫定政権の首班として考えていた灘尾弘吉、保利茂、前尾繁三郎らよりも議員経験が長かった。長老による暫定政権案が潰された椎名にとって、三木は長老議員に準じる存在となり得た。 また実際問題として三木以外指名できる人物が自民党内に存在しなかったことも理由として挙げられる。まず中曽根はこの時点では総裁就任を狙わずに調停役となっていた。世論の激しい批判を浴びて退陣に追い込まれた田中と親しい大平を指名することは、田中亜流政権を指名したと見なされて自民党にとって大きなマイナスとなるのは明らかであった。また大平が椎名暫定政権案をリークしたことは椎名の心象を害していた。一方福田は田中と激しく対立しており、三木とは異なり公然と田中を批判していた。そのような福田を指名すれば田中派、大平派の強い反発は避けられなかった。また椎名と福田との間には1962年(昭和37年)の岸派分裂時からの確執があり、まだ尾を引いていた。そして党内で激しいつばぜり合いが続く情勢下で総裁公選を強行すれば、福田、大平らの泥仕合となることが明らかであり、自民党の更なるイメージダウン、そして分裂の危機をも呼び寄せかねなかった。暫定政権案がことごとく流れてしまった上、4人の実力者の中で残された人物は三木であり、総裁公選を行い得ない状況では三木を指名するしかなかった。 三木は少数派閥の領袖であり、その党内基盤の脆弱さが逆に幸いした面もある。椎名も田中も三木ならば組しやすいと判断したのである。最後に先述のように三木は野党、とりわけ民社党との連携の話が具体化しつつあった。党分裂の芽を摘むためにも三木の指名は効果的であるといえた。 11月30日の夜、椎名は産経新聞記者の藤田義郎に対し、三木指名の裁定文の起草を要請した。藤田は三木邸を訪れ、明日の椎名による裁定は三木指名となることと裁定文の起草を依頼されたことを伝えた。三木は「藤田君、その裁定文は後世に残る天下の名文にしなければならん。ボクが書く。徹夜してでもボクが書く。」といい、12月1日の朝に三木と藤田の案文を突き合わせた上で草案としてまとめ、最後に椎名の添削を受けて裁定文とすることになった。この時の椎名が添削したのは、三木が藤田に「政界最長老の三木武夫」という語句をつけてくれという要望を入れた原稿を、椎名が気づき、「最長老」の「最」の字を削った箇所だという。藤田の回想によれば三木の原稿はミミズが這ったような文字であったという。そして日付けが変わる頃、三木は妻睦子や子どもたちを寝室に呼び寄せ、「大変なことになるかもしれない」と告げた。 12月1日、前日に引き続き開催された5者会談の冒頭、椎名は三木を後継に推薦する裁定文を読み上げるとすぐに席を立った。裁定を受けて三木は「青天の霹靂」と語り、意外な結論であるとしたが、実際は事前に自らが指名されることを知っていた。裁定直後、三木は福田と会談して「三木内閣は君との共同内閣のつもりであり、経済問題は一任したい」と切り出し、福田から裁定受け入れを確認した。話し合い決着を主張していた福田に椎名裁定を拒絶する大義名分はなかった。中曽根派も12月1日に裁定受け入れを表明し、佐藤栄作ら党顧問や水田派、石井派などの中間派も裁定受け入れを明らかにした。一方田中派と大平派は椎名裁定をすんなりと受け入れようとはしなかった。しかし田中派は領袖である田中の金脈問題が混乱のきっかけとなったこともあり、裁定に強く反発することは出来なかった。また先述のように党内基盤の弱い三木は田中にとって組しやすい相手と思われた。一方大平はあくまで公選での総裁選出にこだわり、役員会、総務会という党の正式な機関で承認された上で自らの結論を出すとした。しかし三木派、福田派、中曽根派が早々に裁定受け入れを明らかにし、中間派や党顧問、そして田中も裁定受け入れの意向を示す中では大平も抵抗を続けることは出来ず、椎名裁定を受け入れざるを得なかった。 なお、椎名裁定に対して二階堂進幹事長ら党三役は、裁定について事前に全く相談を受けておらず党機関の軽視であると猛反発し、12月2日には辞任するとした。しかし党三役は各方面から慰留され、結局辞任はしなかった。こうして椎名裁定に対する自民党内の反発は沈静化し、三木が田中の後継総裁となることが確定した。三木は12月4日に開催された自民党両院議員総会において、全会一致で第七代自由民主党総裁に選出され、党役員人事と組閣に着手することになった。
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