結成・デビュー
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「テイスト (バンド)」の記事における「結成・デビュー」の解説
1966年。インパクト・ショーバンドを解散し、ドイツのハンブルクでインパクトのリズムセクションと作った3ピースバンドで暫く演奏活動をした後、コークの実家へ戻ったロリー・ギャラガーは、新しいバンドを組むためのメンバーを探していた。ちょうどその頃、64年にコークで結成されていたR&B系3ピースバンドThe Axillsのギタリストがバンドを脱退。代わりのギタリストを探していたメンバーはコークに戻ってきたロリーに声をかけ、セッションをする。意気投合するが、2代目ギタリストとしてバンドに加わることを拒否したロリーは代りに新しいバンドを作ろうと持ちかけ、ここにテイスト(Taste)が誕生する。
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結成・デビュー
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「レベッカ (バンド)」の記事における「結成・デビュー」の解説
1982年2月、ギターの木暮武彦(シャケ)がリーダーとなり、埼玉県内のアマチュアミュージシャンが集まり結成。バンド名は木暮がケイト・ダグラス・ウィギンの小説『黒い瞳の少女レベッカ』(原題:Rebecca of Sunnybrook Farm)から引用した。前身のバンドは男性ボーカルだったが、バンド「DOLL」のボーカルだったNOKKO(ベースの山田貢司の妹)が加入する。同年7月、木暮とNOKKOがデモテープを売り込もうとロサンゼルスへ渡り、バンドは活動停止となる。ふたりは夢を叶えられず帰国し、1983年1月、ベースの高橋教之が加入しバンドは再始動する。 1983年8月、CBS・ソニーのFITZBEATレーベルのオーディションに合格し、キーボードの土橋安騎夫が加入。1984年4月21日、シングル「ウェラム・ボートクラブ」でデビュー。ライブハウスを中心に徐々にファンを増やしていくが、レコードセールスでは苦戦する。
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結成 - デビュー
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「サヴェージ・ガーデン」の記事における「結成 - デビュー」の解説
1993年、当時「Red Edge」というバンドで活動していたダニエル・ジョーンズが、ブリスベンの新聞にヴォーカリスト募集の広告を出したところ、当地の大学の学生だったダレン・ヘイズが現れ、オーディションを経てバンドに加入。翌1994年にダニエルとダレンは共にバンドを離れ、デュオでの活動を始めた。「サヴェージ・ガーデン」というバンド名は、アン・ライスの『ヴァンパイア・クロニクルズ』に出てくる一節「The mind of each man is a savage garden...」から取られた。ダレンはこの『ヴァンパイア・クロニクルズ』のファンであった。 1996年、地元オーストラリアのレーベル「ロードショー・ミュージック」よりデビューシングルとなる「I Want You」をリリース。これがオーストラリア国内で大ヒットとなり、彼らはアメリカのレコード会社にも注目される存在となった。メジャーレーベル間の争奪戦の末、コロムビア・レコードが契約。コロムビアから出した2枚目のシングル「To the Moon and Back」は、1997年1月にチャート1位を記録してまたしてもヒットとなった。3枚目のシングル「Truly Madly Deeply」の後、デビューアルバムとなる『Savage Garden』を発表。このアルバムは同年3月にオーストラリアでチャート1位になり、17週にわたってトップの座を維持していた。 世界中で彼らの人気が高まるのに呼応して、1998年にはワールド・ツアーも敢行した。
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結成、デビュー
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「L'Arc〜en〜Ciel」の記事における「結成、デビュー」の解説
1991年2月頃、大阪市でtetsuyaを中心に結成される。グループ名はフランス語において「虹」を意味する l'arc〜en〜ciel (フランス語発音: [laʀkɑ̃sjɛl] ラルカンスィエル、ラフカンスィエル)。グループ名決定の経緯は諸説あり、阪急梅田駅前に存在した喫茶店の名前をtetsuyaが気に入り、そこから取ったという説が有力であるとされてきたが、tetsuyaによって否定された。正確には、当時本屋などで資料を探していたtetsuyaがこの言葉をたまたま見つけ、見た目や響き、さらには様々な色を表現する「虹」が「音楽」の表現という点で共通していると感じたため、この名前をつけたという。また、tetsuyaは「長くて覚えにくいけど、ローマ字表記にしたらインパクトがあると思った」とも語っている。 当時のメンバーはtetsuya (ベース・当時は「tetsu」)、hyde (ヴォーカル・当時は「Hide」)、hiro (ギター)、pero (ドラムス)の4人で、インディーズ時代は関西を拠点に活動した。ちなみに、L'Arc〜en〜Cielを結成する前にhydeとperoの2名は「Jelsarem's Rod」で共に活動しており、Jelsarem's Rodとして参加したセッション大会で偶然tetsuyaと遭遇して以降、tetsuyaがhydeに対し「バンドを作ろう」と電話などで誘い続け、結果tetsuyaらとセッションを行った。その後、Jelsarem's Rodのメインコンポーザーも兼ねていたhydeが「活動の行き詰まりを感じて」解散。セッションの縁からL'Arc〜en〜Cielに加入することとなった。結成後、5月30日に当時のホームグラウンドとしていた難波ロケッツで行ったファーストライブは、いわゆる対バン形式ながらも100人以上を動員。また、9月27日に同所で行われた初のワンマンライブでは300人以上の動員を記録するなど、結成間もなくのインディーズバンドとしては異例の動員数を誇っていた。 1992年に入り、3月にはオリジナルのビデオプレゼントライブを大阪の他に東京でも行い、関東地方にも活動拠点を広げるが、6月にhiroが脱退。後釜にはtetsuyaと学生時代に親交のあったkenが加入する。直後から1stアルバムのレコーディングを行い、完成直前まで漕ぎ着けたものの、メンバー曰く「出来映えが気に入らなかった」ため全曲をボツにしアルバムを発売しない意向を取った。しかし、この一件で当時所属していた事務所との間に軋轢が生まれ、レコーディングに掛かった経費などの支払いを命じられたが、これとほぼ同時に、デンジャークルー (現:マーヴェリック・ディー・シー・グループ) 社長の大石征裕から「うちの事務所に来て欲しい」と誘いがあり、そのままデンジャークルーへ移籍。この時の金銭問題は、事務所間での話し合いで全て白紙となった。 1993年1月、前年12月のライブで脱退したperoに代わってsakuraが加入。この後に約1ヶ月間のレコーディングに入り、アルバム『DUNE』を発売。限定リリースのCDを除く初の公式発売音源となった。5月10日付のオリコンインディーズアルバムチャートでは1位を獲得し、インディーズでの人気を不動のものとする。この年の夏、当時CDショップでアルバイトをしていたtetsuyaが「店に来た担当の人間を気に入った」という理由から、1992年にソニー・ミュージックエンタテインメント内で新規レーベルとして設立されたばかりの「キューン・ソニーレコード」と契約を結ぶ。
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