米国市場への売り込みと販売好転
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/31 02:29 UTC 版)
「エアバスA300」の記事における「米国市場への売り込みと販売好転」の解説
1976年11月時点でA300の運航会社にはエールフランス、ルフトハンザ航空、大韓航空、ジャーマンエアのほか、エア・インディアやフランスのエールアンテール、オランダのトランサヴィア航空なども加わっていたが、運航機数は27機であった。エアバス・インダストリーはA300の改良と販売活動に懸命に取り組んだが、受注は相変わらず伸び悩んだ。1977年初頭における確定受注は36機、オプションを含めても57機であった。深刻な不況が続いて世界の航空会社は大型機を持て余し、売りに出される747もあるほどだった。DC-10、L-1011そして747は石油危機の前にまとまった受注を獲得していたが、A300にはそれがなかった。 エアバス・インダストリーの主要メンバーであるアエロスパシアルは、当時手がけていたコンコルドやコルベット(英語版)も売れず経営危機に陥った。A300は月産2機で生産されていたが、トゥールーズには行き場のない機体が滞留し、1977年には月産1機に減産することが決定し、さらに0.5機まで抑えることも検討された。必死の売り込みが続けられ、欧州の銀行団も破格の融資条件を提示し、米国のメーカーが手を引くような経営状況が悪い航空会社へも納入したため、叩き売りの噂も立つほどだった。 エアバス・インダストリーは、A300の事業成功の鍵は米国の航空会社からの受注にあると考え、積極的な販売活動を展開した。その成果は1977年に現れ、米国内線大手だったイースタン航空への売り込みに成功した。実は当時、不況の影響でイースタン航空も経営不振に陥っていて、主力のL-1011を持て余していた。同社はL-1011と同等の近代性を備えた小型の機材を求めており、A300にも興味はあったが、新機材購入に充てられる資金が無かった。そこで、エアバス・インダストリーは4機のA300B4を6か月間、無償でリースするという思い切った提案を行い、1977年8月にこの内容で契約が結ばれた。 同年12月13日、イースタン航空はA300の路線就航を開始した。イースタン航空のA300は、評価という目的もあり条件が厳しい路線に投入されたが、1日あたり平均8.4時間、定時出発率98.4%という優れた運航実績を示した。イースタン航空が特に気にしていたエアバス・インダストリーの製品サポートに問題は無く、乗客からの評判も上々であった。 ただ、ニューヨークのラガーディア空港への乗り入れが問題となった。空港を管理するニューヨーク港湾局が、空港の水上部分の強度上の理由によりA300の109トン以上での離陸を認めなかったのである。話し合いの結果、エアバス側が水上部分のコンクリート補強費用50万ドルを負担するとともに、A300の主脚の車輪間隔を広げる改造を18か月以内に行うことを条件に、138トンまでの離陸が認められ、これによりラガーディア - マイアミ間の直行便の運航が可能となった。 エアバス・インダストリーは本格的にA300の購入を検討し始めたイースタン航空に対し、購入額の大部分に好条件の融資を行った。さらに、イースタン航空が元々望んでいたのは170席程度の機材であったことから、より大型のA300で運航コストが嵩んだ分を1982年までエアバス・インダストリーが保証するという金融的措置まで行った。こうして1978年4月にイースタン航空からA300B4を確定23機、オプション9機を発注し、エアバス・インダストリーはA300の米国の航空会社への売り込みに成功した。 イースタン航空によるA300の運航は好調で、同社は「今までの機材中最高」と評価した。ちょうどこの頃から世界の航空業界も不況を切り抜け経営を立て直しつつあった。航空機需要が上向きになり、1977年後半からA300の販売は急に売れ出した。石油危機による燃料費の高騰が長期に渡ったことで、双発で大人数を乗せられるA300の経済性が認められることとなった。スカンジナビア航空やアリタリア航空に加え、タイ国際航空やガルーダ・インドネシア航空、そして日本の東亜国内航空といった欧州以外の航空会社からも新規受注を獲得した。エールフランスやルフトハンザ航空の追加発注やイベリア航空からの再発注も加わり、確定受注数は1977年が20機、1978年が70機、1979年も前半だけで50機に達し、エアバス関係者も予想していなかった売れ行きとなった。一転してA300の増産が決まり、1979年には月産2.5機、1980年の通算118号機完成後からは月産3機となった。 この販売好調には、エアバス機を導入する航空会社に対する好条件の融資も一役買っていた。エアバス加盟国の政府保証のもと欧州の銀行団が、必要資金の90%近くまで年率8%台固定で貸し出し、10年またはそれ以上の延べ払いも可能とするなど、米国輸出入銀行が自国製旅客機に設定する条件を上回っていた。 これまで生産されたA300は、GE製のCF6シリーズエンジンを装備していたが、スカンジナビア航空の発注機はP&W製のJT9Dエンジンを装備する最初の機体となった。このタイプは1979年4月28日に初飛行を行い、1980年1月4日に型式証明を取得、1980年1月17日に初引き渡しが行われた。 この頃、A300B4をベースとした貨客転換型A300C4も開発された。A300C4では、メインデッキ(客席部分)に貨物を搭載できるよう左舷前方に幅3.58メートル、高さ2.57メートルの貨物扉を設置し、床面強化などが行われた。ドイツのハパックロイドが最初の発注者となり、A300B4-200として完成していた83号機がA300C4に改造された。A300C4は1979年12月18日に型式証明を取得し、その月に初引き渡しが行われた。
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