第3次リーフ戦争
(第三次リーフ戦争 から転送)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/07 03:47 UTC 版)
第3次リーフ戦争(だい3じリーフせんそう、3rd Rif War)はスペイン・モロッコ戦争と呼ばれる一連の紛争の一つで、スペイン王国とリーフ地方ベルベル人(リーフ族が多数)の部族国家リーフ共和国の間で行われた戦争。
- 1 第3次リーフ戦争とは
- 2 第3次リーフ戦争の概要
- 3 概要
- 4 関連文献
第三次リーフ戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/08 09:40 UTC 版)
欧州の主要国の中でスペインは二度の世界大戦に唯一参加しなかった。そのうち第一次世界大戦については外交上の利害関係や、折からの工業力不足による軍の弱体化を危惧してのことであった。大規模な戦争に不参加であったことは、スペイン陸軍の作戦研究に深刻な打撃を与えた。その象徴ともいうべき事件が第三次リーフ戦争である。 同戦争は北アフリカに居住するリーフ族(ベルベル人の一部族であった)の居住区に、2万5000名のスペイン軍が侵攻を開始したことに端を発している。米西戦争などで海外領土を失い続けていたスペイン王アルフォンソ13世は、自国の威信を保つためにもモロッコ地方の統治を強化しており、その一環として野放しになっていた小部族の支配に乗り出したのである。リーフ族長アブド・アル・クリムはスペイン軍に警告を下すが、わずかに3000名しか動員できなかったリーフ族を過小評価したスペイン軍はアメクラン川を渡河し、首都アンワールへと進軍する。だが砂漠の奥地に進軍したスペイン軍は、アブド・アル・クリム自ら率いる数百名の兵団に後方の拠点を次々と奪還され、補給不足に陥ってしまう。スペイン軍は首都攻略を後回しにして2度に亘る大規模な突破部隊を差し向けるも、リーフ族が築いた塹壕の前に損害だけを出して撃退された。第一次世界大戦に無関心だったスペインは、塹壕の価値を半ば理解していなかったのである。この時点で1万人近いスペイン兵が失われていたが、リーフ兵はわずかに30名の戦死者しか出していなかった。 補給を失ったスペイン軍1万5千名はアンワールを諦めて退却を開始するが、道中でリーフ軍の攻撃を受けたことから退却は敗走へと代わり、やがて隊伍を乱しての壊走となった。この戦いで無事に本国へ逃げ帰れたスペイン兵士はわずかに半数程度で、1万2千名の戦死・戦傷者と数百名の捕虜を出し、指揮官のシルベストレ将軍も退却中に行方不明となった。対するリーフ軍の死者は100人足らずであったという。このアンワールの戦いでの敗因は、スペイン軍の装備が工業力の不足により陳腐化していたことに加え、給与の問題などから兵士たちの士気や錬度が著しく悪化していたことが挙げられる。また、陸軍が現代的な戦争に対して全く無知であったことも致命傷となった。 予想以上の圧勝を前に、勢い付いた3000名のリーフ軍は逆に侵攻を開始、スペイン領モロッコの東部を占領してスペイン軍の総司令部のあるメリリャ市へと迫る。瀬戸際に追い詰められたスペイン軍は、敗残兵の再編や本国からの増援の派遣はもちろん、外人部隊や民兵部隊までもを掻き集めて抵抗した。空軍の大規模な支援も始まり、数万人のスペイン軍は辛うじてリーフ軍のメリリャ攻略を防いだ。だが進軍を止めるので精一杯のスペイン軍に、奪われた領土を取り戻す気力は残されていなかった。スペイン国内では和平派と抗戦派が内乱寸前まで対立し、最終的に和平派のプリモ・デ・リベラ将軍が軍事政権を敷いて混乱収拾に乗り出し、独立を宣言していたリーフ共和国と講和を進め始める。しかし途中で強硬派に転じたデ・リベラは、地中海の不安定化を嫌った隣国フランスの支援を受けて反撃を開始する。スペイン軍も信頼性の低いスペイン人兵士に代わり、外人部隊やベルベル人傭兵を軍の主力に据え、リーフ兵と互角に戦いうる錬度を得ようと試みていた。さらにフランス軍の支援で戦車の投入も開始するなどの努力もあり、一時的にリーフ軍の撃退に成功した。 しかし一方のリーフ共和国も、他のベルベル人部族を統合して軍備を強化しており、またモロッコ西部の諸部族もスペインに反旗を翻してリーフ側に付いたことで、その戦力は7万名にまで膨れ上がっていた。リーフ軍の攻勢が始まるとスペイン軍は再び敗北を重ね、シャウエンの戦いで大敗を喫して1万2000名の被害を出して敗走した。スペイン軍にとって退却を行うことすら、迫り来るリーフ軍の前には難事で、40台の輸送トラックの車列が伏兵によって一気に破壊されるケースもあった。それでもスペイン軍は3万名の残存に成功し、この功績から指揮官であったフランシスコ・フランコが少佐に昇進している。 スペイン軍の不甲斐ない戦いに、自国の北アフリカ領まで戦火が飛び火するのではないかと危惧したフランス政府は、自軍の直接介入を決断する。とはいえ当初は一部部隊を越境させただけで自国領内との国境地帯を占拠するのみと、全面的な軍事介入は控えていた。しかしリーフ軍が補給を巡っての戦いで若干の被害をフランス軍に与えたことで、これが逆にフランス軍の本格的な参戦を招く結果となる。フランスは仏領モロッコの駐留軍全体6万名に加え、ライン川に展開する本国軍から10万人を抽出した16万の大軍をもって進軍を開始、総指揮官には第一次世界大戦の英雄フィリップ・ペタン元帥が就任した。名将ペタン率いるフランス軍はリーフ軍を圧倒し、これに呼応したスペイン軍も毒ガスを使用しての大攻勢でリーフ軍を破りアンワールを占領する。1925年、ようやく戦争は終結した。 この戦争で20万を越える戦力を投入し、4万名を越える戦死者を出したスペイン陸軍は威信を大きく失った。軍備は大幅に削減され、軍部が不満を抱き、国内政治は混乱して革新勢力が台頭し始めていく。この混乱は最終的に人民戦線政府の成立と軍部の反乱という最悪の事態に結び付いてしまう。 スペイン内戦の勃発は、第三次リーフ戦争の終結から4年後のことであった。
※この「第三次リーフ戦争」の解説は、「スペイン陸軍」の解説の一部です。
「第三次リーフ戦争」を含む「スペイン陸軍」の記事については、「スペイン陸軍」の概要を参照ください。
第三次リーフ戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/12 07:20 UTC 版)
「フランス保護領モロッコ」の記事における「第三次リーフ戦争」の解説
詳細は「第三次リーフ戦争」および「アブド・エル・クリム」を参照 1912年から1927年までのスルタンユセフの治世は混乱しており、スペインとフランスに対する蜂起が頻発した。これらの中で最も深刻だったのは、リーフ共和国の樹立に成功したアブド・エル・クリムが率いた、リーフ山脈でのベルベル蜂起であった。この反乱は北部のスペイン支配地域で始まったが、やがてフランス支配地域でも始まった。フランスとスペインの連合軍は1925年にようやく反政府勢力を打ち負かした。自身の安全確保のため、フランスは裁判所をフェズからラバトに移した。
※この「第三次リーフ戦争」の解説は、「フランス保護領モロッコ」の解説の一部です。
「第三次リーフ戦争」を含む「フランス保護領モロッコ」の記事については、「フランス保護領モロッコ」の概要を参照ください。
- 第三次リーフ戦争のページへのリンク