第三次マラーター戦争と同盟の解体
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「マラーター同盟」の記事における「第三次マラーター戦争と同盟の解体」の解説
1814年、宰相バージー・ラーオ2世とガーイクワード家との間にグジャラートのアフマダーバード領有をめぐり争いが発生した。その調停はイギリスにゆだねられたが、1815年7月14日にガーイクワード家からプネーに派遣された使節ガンガーダル・シャーストリーを、バージー・ラーオ2世の家臣が殺害してしまう。 1817年6月13日、イギリスはこのことからバージー・ラーオ2世に対して、新たな条約プネー条約を押し付けた。これは形式的にも実質的にもマラーター同盟を解体することを強制するものであった。 バージー・ラーオ2世がイギリスの押しつけたプネー条約に耐え切れず、11月にイギリス軍に対して攻撃を開始した。ここに第三次マラーター戦争が勃発した。ボーンスレー家、シンディア家、ホールカル家といったマラーター諸侯も味方したが次々に制圧され、1818年6月にはバージー・ラーオ2世も降伏した。 バージー・ラーオ2世の降伏をもって、マラーター王国の宰相府は崩壊し、マラーター同盟は名実ともに解体された。宰相府の領土はボンベイ管区に併合され、バージー・ラーオ2世は北インドのカーンプル近郊ビトゥールへ追放された。 他方、マラーター王国とコールハープル・マラーター王国はそれぞれ藩王国としてそれぞれ存続を許された。また、有力諸侯シンディア家、ホールカル家、ボーンスレー家、ガーイクワード家も藩王国として存続を許された。南マラーター地方にはゴールパデー家、パトワルダン家など小さな諸侯国も多かったが、それらも藩王国として存続を認められた。
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