第一次イタリア戦争とは? わかりやすく解説

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第一次イタリア戦争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/09/20 06:15 UTC 版)

第一次イタリア戦争
イタリア戦争

シャルル8世の軍勢
1494年-1495年
場所イタリア
結果 フランスの決定的敗北
衝突した勢力

フランス王国

1494年:
ナポリ王国
1495年:
ヴェネツィア同盟
教皇領
ヴェネツィア共和国
ナポリ王国
スペイン王国
ミラノ公国
神聖ローマ帝国
フィレンツェ共和国
指揮官
シャルル8世
オルレアン公
モンパンシエ伯
ルイ・ド・ラ・トレモイユ
フェルディナンド2世
フェデリーコ
フェルナンド2世
フランチェスコ2世・ゴンザーガ
戦力

2万5000人[1]

  • 8000人
不明
被害者数
1万3000名[1] 不明

第一次イタリア戦争(だいいちじイタリアせんそう)は、ローディの和によって五大国時代を迎えていた近世イタリアにおいて、イタリア半島の掌握を目指して行われたフランス王シャルル8世による軍事侵攻を指す。

中央集権によって大国化に成功したフランスは2万名以上の大軍を動員して有利に戦ったが、イタリア諸侯の激しい抵抗が始まると次第に苦戦を強いられた。最終的に神聖ローマ帝国スペイン王国の援助を受けたイタリア諸侯軍によってフランス軍は撃退され、シャルル8世は本国に逃げ帰った。シャルル8世の目論みは失敗したが、以降イタリア諸侯の支配権を巡る戦い(イタリア戦争)が継続する事になる。

概要

背景

1489年9月11日ナポリ王フェルディナンド1世教皇領(教会)との激しい対立を経て、当時の教皇インノケンティウス8世によって破門処分を受けた。

インノケンティウス8世は政治的な立場が弱まったフェルディナンド1世を失脚させるべく、ナポリ王家の縁者であったフランス王シャルル8世にナポリ王位への推薦を与えた。しかし1492年にナポリ王家と教会の間で和議が成立すると、破門は取り消され、この話は有耶無耶となった。1494年1月、フェルディナンド1世は息子のアルフォンソ2世に王位を譲って病没する。無視された形になったシャルル8世は不満を持ち、教会の説得を無視してアルフォンソ2世に王位を請求し続けた。

フランスの侵攻

ナポリに入城するフランス軍(1495年

1494年10月、叔父のルドヴィーコ・スフォルツァ・イル・モーロによって実権を奪われていた病弱な若きミラノ公ジャン・ガレアッツォ・スフォルツァが死没した。機会を逃さずルドヴィーコ・スフォルツァは、甥の妹である神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世の妃ビアンカ・マリア・スフォルツァに兄の遺産を与える代わりに、自らがミラノ公を継承する許しを得た。これに同じ五大国の一角であるナポリ王国が異論を唱え、アルフォンソ2世はミラノ公位を渡すように要求した。

自らの失脚を恐れたルドヴィーコ・スフォルツァは、父の築いたローディの和によるイタリアの平穏を自ら破壊する選択をした。シャルル8世を煽り立て、そればかりか自らの領土の通行権を与えたのである。新しい教皇アレクサンデル6世を毛嫌いしていたシャルル8世は、教会によるかつての推薦を大義名分にしつつ、同時に自らが気に入っていたジュリアーノ・デッラ・ローヴェレ枢機卿を新たに教皇に即位させる考えを持っていた。そこにイル・モーロによる誘いが加わり、シャルル8世はイタリア諸侯への戦いを挑む宣言をした。

シャルル8世が召集した軍勢は同時代においては類を見ない大軍であり、フランス兵1万7000名とスイス傭兵8000名からなる総勢2万5000名を率いて進軍した[1]

進軍

1495年7月6日のフォルノーヴォでの戦闘

まずは南部からミラノ公国に入ったシャルル8世は、次に南下してフィレンツェ共和国に向かって進軍した。共和国内ではどちらにつくかで論争が起きたが、戦乱に巻き込まれることを嫌った共和国の民衆は僭主ピエロ・ディ・ロレンツォ・デ・メディチを追放して臨時政府を樹立した。臨時元首ベルナルド・ルチェッライ英語版はフランス王国軍の通行を許可する決定を下した。

1495年2月、教皇領を退けてナポリ王国に到達したシャルル8世は、アルフォンソ2世の跡を継いでいたその弟フェルディナンド2世と対峙した。大軍の前にナポリ王家は為す術もなく王都を初めとする主要拠点を失い、幾つかの領地へと後退した。1495年5月20日に王国平定をほぼ終えたとして、宰相であるモンパンシエ伯ジルベールは一部軍勢を率いて本国へ撤収した。しかし、シャルル8世自身は大多数の軍勢と共にナポリへ滞在を続けていた。

その間、状況を静観していたヴェネツィア共和国は反仏同盟の形成を進め、アレクサンデル6世やナポリ王フェルディナンド2世らと連絡を取り、また神聖ローマ皇帝にも援助を要請するなど水面下で準備を始めていた。やがてフェルディナンド2世が親族であるカスティーリャ・アラゴンフェルナンド2世の助力を得て、シチリア島から進軍してナポリ王国領を奪還した。規律が緩んでいたフランス軍は慌てて北方へと退却したが、そこにヴィネツィア軍・教皇軍・フィレンツェ軍が立ちふさがり、さらには寝返ったルドヴィーコ・スフォルツァのミラノ軍も加わってイタリア諸侯に包囲される状態となった。

1495年3月31日に結成が宣言された神聖同盟(ヴェネツィア同盟)は、イタリア諸侯軍・スペイン王国神聖ローマ帝国から編成され、一時はイングランド王国も協力を打診していた。複数の国が結束して一つの国を包囲するという行動は、それまでの欧州ではほとんど見られない行動であった[2]。周辺国全てを敵に回したフランス軍は、イタリア各地を逃げ惑いながらミラノ近郊で連合軍に捕捉され、マントヴァ侯フランチェスコ2世・ゴンザーガを総大将にした連合軍によるフォルノーヴォの戦いイタリア語版フランス語版英語版で甚大な損害を蒙る結果となった。惨敗の後、生き残ったフランス兵は略奪品のほとんどを置いて故郷へと逃げ帰り、シャルル8世は大いにその名望を落とした。

1498年、シャルル8世は雪辱を果たせないままに事故死した。

出典

  1. ^ a b c R. Ritchie, Historical Atlas of the Renaissance, 64
  2. ^ Anderson, M. S. The Rise of Modern Diplomacy 1450–1919, Longman, London 1993, p 3.
  • Phillips, Charles and Alan Axelrod. Encyclopedia of Wars. New York: Facts on File, 2005. ISBN 0-8160-2851-6.

第一次イタリア戦争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/05 02:16 UTC 版)

イタリアの軍事史」の記事における「第一次イタリア戦争」の解説

詳細は「第一次イタリア戦争」を参照 近世ルネッサンス迎えたイタリア5つ大国集約されつつあり、この五大国によって結ばれたローディの和約によって対外的な平和を実現した。しかし1494年イタリア戦争始まりによって再び混迷の時代迎えたミラノ公国のルドヴィコ・スフォルツァ(イル・モーロ)は和平実現したに対して権力闘争為に諸外国イタリア情勢へと引き込む愚を冒したナポリ王位に対す継承主張していたフランス王シャルル8世懐柔したルドヴィコは、対立していたナポリ王国フランス軍嗾ける事に成功した平穏の中で戦術的な進化遅れていたナポリ軍はセミナーラ戦いなどでフランス軍苦戦強いられシャルル8世ナポリ王位を奪い取る事に成功した。だがイタリア諸侯の反仏感情が高まる中でヴェネツィア軍と教皇軍が助け舟出し、ナポリ・ヴェネツィア・教皇領の反仏同盟結成された。そして同盟にカスティーリャ・アラゴン連合神聖ローマ、それにミラノ助力申し出た事で反仏包囲完成した1495年包囲危機晒されシャルル8世はフォルノーヴォの戦い経て命からがらイタリアから脱出した勝利を得たイタリア諸侯対しシャルル8世屈辱味わったままに事故死したが、この戦い戦争の始まりに過ぎなかった。

※この「第一次イタリア戦争」の解説は、「イタリアの軍事史」の解説の一部です。
「第一次イタリア戦争」を含む「イタリアの軍事史」の記事については、「イタリアの軍事史」の概要を参照ください。


第一次イタリア戦争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/08 23:24 UTC 版)

ゴンサロ・フェルナンデス・デ・コルドバ」の記事における「第一次イタリア戦争」の解説

この時点でのゴンサロ対す大方の評価は、あくまで優秀な士官の域を出なかったが、イサベル1世彼の忠誠心器量評価していた。1494年から開始されイタリア戦争において、スペイン軍司令官としてゴンサロ選ばれたのは、こうしたイサベル個人的な評価のためである。イタリア上陸したゴンサロは、ナポリ王元へ5千の援軍送り届けた1495年3月31日教皇アレクサンデル6世呼びかけによって神聖同盟結成され戦況フランスの劣勢転換しつつあった。 1495年5月26日ゴンサロ率いスペインナポリ連合軍は、フランス軍イタリア南部カラブリアセミナラ交戦したセミナラ戦い)。フランス軍騎兵600名とスイス槍兵400名、対す連合軍歩兵1000名、騎兵400名、他にナポリ義勇兵加わっていた。兵力的には優勢ありながら戦いフランス軍勝利終わった。まずフランス騎兵攻撃スペイン騎兵敗退し続いてフランス騎兵スペイン歩兵隊列突撃をかけた。ナポリ義勇軍浮き足立って後退始めた連合軍隊列乱れたところをスイス槍兵前進して突き崩した。この時点勝敗決しゴンサロ全軍撤退させた。 正確な損害わかっていないが、明らかにスペイン軍の敗北であった山岳戦ゲリラ戦主体レコンキスタ戦ってきたスペイン軍は、フランス軍騎兵スイス槍兵組み合わせた攻撃対抗できなかったのである。この敗北ゴンサロにとって生涯唯一の敗北となったゴンサロ敗因スペイン軍編成そのものにあると考え、これを変革させる必要性強く感じようになった1495年7月6日、フォルノヴォの戦いで神聖同盟軍敗れたフランス軍は、イタリアから撤退した。これによって、戦争そのもの神聖同盟側の勝利終わったゴンサロイタリアとどまり軍隊の改革開始した

※この「第一次イタリア戦争」の解説は、「ゴンサロ・フェルナンデス・デ・コルドバ」の解説の一部です。
「第一次イタリア戦争」を含む「ゴンサロ・フェルナンデス・デ・コルドバ」の記事については、「ゴンサロ・フェルナンデス・デ・コルドバ」の概要を参照ください。

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