第一次イタリア独立戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/15 16:04 UTC 版)
「カルロ・アルベルト・ディ・サヴォイア」の記事における「第一次イタリア独立戦争」の解説
1848年にイタリア各地で反オーストリア・反王政の暴動が発生すると、これに乗ずる形でオーストリア帝国に宣戦布告を行う(第1次イタリア独立戦争(イタリア語版、フランス語版、英語版))。オーストリア軍は北イタリアに駐屯するイタリア人部隊の反乱や民衆軍の組織立った攻撃に大きく動揺していたが、サルデーニャ王国軍はこのチャンスを全く利用できなかった。その理由はアルベルトと共和派色の強い反乱軍の双方が不信から団結できなかったこと、そしてサルデーニャ王国軍が外征の準備を整えていなかったためである。サルデーニャ軍は確かに優れた軍隊だったが、領土の守備や国内警備にのみ特化していた。故にトリノの参謀本部はロンバルディア地方の正確な地図すら用意できず、ミラノの遠征軍との連絡は不十分なものであり続けた。 反乱軍の活躍もあってロンバルディアを占領し、更に共和派のマニン率いるヴェネト共和国が王党派の説得を受けてピエモンテへの合併による「北イタリア王国」の成立を決めた後も、参謀本部の不備とアルベルトの懐疑心は変わらなかった。彼は若き日のガリバルディも加わっていた共和派の反乱軍兵士に賛辞を送る代わりに、あからさまに侮蔑的な態度で接している。また後退を強いられたオーストリア軍がラデツキー将軍の下で体勢を立て直す間、アルベルトは北部諸地域の王党派を支援して共和派を攻撃する事に費やした。 1848年、増援を得たオーストリア軍3万3000名とサルデーニャ軍2万2000名が衝突(クストーツァの戦い)し、オーストリア側は4600名の死者を出しつつも相手方を破った。サルデーニャ側は8000名の損害を出してミラノに撤退した。反乱軍は徹底抗戦の意思を固めていたが、此処にいたっても反乱軍を信用せず、それどころかオーストリアとの内通や王政廃止の謀議を疑っていたアルベルトは自らミラノを捨ててトリノに引き返してしまった。
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