球界復帰への道
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その一方、事件後は野球中継・野球関連のニュースをほとんど見ず、野球道具も押し入れに押し込んでいたが、就職から丸1年が経過したころ、社内の野球チームから「一緒にやろう」と誘われたことがきっかけで、グラブを押し入れから取り出した。当時、中山は「過ちは一生消えないし、人前に出れば被害者をまた苦しめることになる。野球を諦めて世間に忘れられた方がいい」という思いを抱えていたが、一方で「どうしても野球をやりたい気持ち」も強く、1992年末ごろには職場があった大黒埠頭・アパート近辺で3 - 5 kmの距離を毎日ランニングしていたほか、1993年3月以降は現役復帰に向けた練習を開始していた。なお同年には知人の紹介により、球界復帰後の1995年に結婚した20歳代女性(家事手伝い・神奈川県川崎市在住)と知り合ったほか、このころには後述の署名活動を主導していた入谷から「少しキャッチボールなどをして体を作っておけ」とアドバイスを受け、昼休みに同僚とキャッチボールをしていたが、同僚たちはプロの第一線で活躍していた中山の球威を恐れたためか、キャッチボールを躊躇するようになっていった。 また入谷が中心となり、横浜市内の財界人グループ・中山の母校である高知商高のOBらが「中山裕章君の復帰を願う市民の会」を結成し、1993年1月7日から中山の球界復帰を嘆願する署名運動を開始。同月28日までには横浜市・高知県などを中心に100,387人分の署名が集まった。1993年3月には当初目標の倍以上となる約22万人の署名・嘆願書が解雇直後に声明でNPB全12球団に中山との無期限契約回避を申し出ていた川島セ・リーグ会長に手渡された。この動きを受け、川島セ・リーグ会長は1993年5月28日に「中山投手は更生の道を歩んでいる」と認め、声明に示した無期限契約回避措置を「早ければ同年6月中旬にも解除する」ことを明らかにした。社会的に大きな影響を与えた事件で、逮捕直後は事実上困難とされていた球界復帰の道を開くことは賛否両論が渦巻くのは必至の情勢だったが、川島は「彼は1年半汗を流して働いた。彼を評価する球団が出てくることを期待する」とコメントした。また後に中山を獲得した中日ドラゴンズはこの時点で中山に関心を示しており、伊藤濶夫・球団代表が「汗を流して頑張っている青年に救いの手を差し伸べたい」、中山了・球団社長も「獲得を考えてみようという気持ちはある」とそれぞれコメントした。 川島は「中山の投手生命を考えればそろそろ復帰への道を開く時期だ」として私的顧問機関「セ・リーグ懇話会」を開いたが、川同年6月29日に東京・銀座のセ・リーグ連盟事務所で開かれた懇話会は声明の解除に対し「現時点では時期尚早」との結論を出した。その理由は当時、元婚約者との民事訴訟が継続中だったことなどで、懇話会は「いずれは要請を解除する必要があるが、中山の更生には精神的安定を含めた身辺整理が不可欠で、元婚約者との訴訟問題を解決することが前提条件として求められる」との理由から声明解除を見送った。その後、「セ・リーグ懇話会」は1993年12月10日に改めて川島の声明を撤回することを答申し、川島は「来週中にも本人と会った後、できるだけ早く解除したい」として球界復帰を事実上認める発言をした。同日に記者会見した懇話会座長の中村稔(セ・リーグ顧問弁護士)は「元婚約者との婚約不履行の裁判に和解が成立し、中山投手も事件から2年以上経って社会的に更生できる実績を示したと理解している」と答申理由を説明した上で「復帰後は試練に晒される中山投手に対し、(獲得する)球団は精神面でも生活面でも十分な配慮・サポートをお願いしたい」とする声明を発表した。これを受けて中山は後見人を通じ「1日も早く川島会長にお会いしてお許しを頂きたいと思います。会長に許していただいても世間の全ての方が許してくださっているわけではないと思いますので、一生謹慎の気持ちで修養を忘れず新しい人間になって頑張りたいと思います。皆様のお気持ちを裏切らないよう精進してまいります」とコメントを発表した。 1993年12月16日午前、川島は渋沢良一セ・リーグ事務局長・児童心理学専攻の大学教授とともに横浜市内のホテルで中山と面接し、現在の心境・生活状態などを聴いた上で、中山の球界復帰を承認することを決定した。中山はこの際、川島に対し「起こしてしまった事件はとんでもないことだが、自分に情を注いでくださる人もいるので、それを支えに耐えていきたい」「どんなことがあっても耐えられるつもり。野球以外に自分の夢はないので野球人として更生させていただきたい」と話した。これを受け、川島は同日午後の球界三首脳会談で吉國NPBコミッショナー・原野パ・リーグ会長にそれぞれ報告して了承を得た上で、事件当時に各12球団に出した要望の解除を決定し、17日の実行委員会で報告後に各球団へ要望の解除を通知することを決めた。そして12月24日に「翌日(1993年12月25日付)で中山との選手契約自粛を要請した声明を解除する」とする内容の文書を各12球団宛てに郵送した。一方、『読売新聞』記者・長谷川一雄は2年間のブランクや世間の厳しい目を指摘し、「仮に復帰できても本当にプロで通用するか?」と疑問を投げかけた上で、「『プロ野球選手である前に、常識ある一社会人であれ』と改めて願わずにいられない」と述べていた。
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