球界一の遊撃手とは
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 20:01 UTC 版)
優れた守備力のある遊撃手と評価されていたものの、ベストナイン遊撃手部門の選出回数にあるように、当時は球界ナンバーワンといえば吉田義男(大阪タイガース)とされていた(吉田は9回に対して広岡は僅か1回)。広岡は、吉田のずば抜けた守備力を「甚だ迷惑」と語っていたが、吉田は「広岡さんからグラブ捌きなど色んなことを学んだ」と述べている。吉田の俊敏、華麗な守備に対抗するために広岡が行き着いたのは「基本に忠実、堅実なプレー」で、岩本尭は「どんなデコボコのグラウンドで、(打球の)バウンドがどうなろうと、広岡は百発百中捌いていた。広岡へのノックが始まると、他の選手は練習を止めて見入っていた」と称えている。 広岡が守備の手本としたのは、ポジションが異なるものの、1958年秋の日米野球で来日したセントルイス・カージナルスの二塁手で、後に選手(南海)・コーチ(南海、広島)・監督(阪神、南海)としてNPB複数球団に在籍するドン・ブレイザーだったという。広岡は、基本動作を一から全て丁寧に練習するブレイザーを見て「最初はバカにして見ていたけど、それはとんでもない大間違いで、自分はあのように丁寧に野球をやってないことに気付かされた。ブレイザーの真似をして打球にひたすら丁寧に向き合うようにしたら、自分の守備力が急激に上がった」と言い、自らの守備理論の確立にブレイザーは最も大きく貢献したと常々語っている。 妥協を許さない厳しい姿勢は監督時代に有名となったが、それは現役時代から変わっておらず、読売ジャイアンツコーチだった牧野茂は「彼(広岡)には『この位で良い』というのが無い。どこかで固めてしまえば“広岡スタイル”が出来ただろうが、常に上を求めてしまう」と語っている。牧野と、現役時代に大先輩だった千葉茂は口を揃えて「広岡のエラーは『理由の無いエラー』が無い。エラーをすると必ずその原因を追究し、翌日にはそれを修正するための練習をしていた」と、その探求心を評価している。
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