球界復帰・打者転向
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1946年に復員し、当時の中部日本軍に復帰。しかし応召中に肩を痛めていたせいで満足な成績は残せず、復帰した際には投手として活動できなかったため、ベンチを暖めるようになっていた。更に戦後新入団の杉浦清が監督に就任して以降、チームは内紛続きで雰囲気が悪くなり、居づらくなっていた。そこに新球団ゴールドスターの監督を務めていた元同僚であり先輩の坪内道典から入団を誘われた。打者として再生させるという条件付きだったが、中日の嫌な雰囲気から逃れたかった西沢は、シーズン途中でゴールドスターに移籍し、一塁手に転向。坪内の指導により、打者として再出発を図った。以来西沢は坪内を父のように慕い、1949年に中日が復帰を要請した際にも「坪内さんも一員に加えてください」と懇願し、共に復帰を果たした。 打者転向に3年を費やし、坪内と共に中日に復帰した後はスラッガーとして活躍。1949年に37本塁打を記録。翌1950年は46本塁打を記録したが、日本プロ野球史上初の50本塁打を達成した松竹ロビンスの小鶴誠(51本)に及ばず、本塁打王は取れなかった。また、同年シーズンは5本の満塁本塁打を放ち、これは現在も日本記録である。 1951年から1952年は打撃コーチ兼任。1952年は打率.353・98打点で首位打者と打点王の2冠を獲得する。再び打撃コーチ兼任となった1954年には主砲として、チーム初のセ・リーグ優勝と日本一に貢献した。 1955年、監督を務めた天知俊一が球団の重役に栄転し、正捕手の野口明が選手兼任監督に就任。野口新監督は西沢に「今年一塁手として新人選手を獲得したから、今年から外野を守ってもらいたい」とコンバートを通告した。西沢は打者転向以来主軸として一塁を守っており、新人獲得を理由とした転向は不本意で、本来ならいがみ合いとなるところだったが、西沢は角突きあいを好まず、失踪により抵抗の意を示した。結局この行動が引退まで一塁のポジションを守る決め手となった。 1956年、助監督兼任。1958年に再び打撃コーチを兼任し、同年に現役引退。背番号15は永久欠番となった(ヘッドコーチ・監督として復帰後も使用)。中日では服部受弘の10を含めて2つだけの欠番は、両選手を辞めさせるときの「妥協点」という杉下茂の談話が中日の球団史に掲載されている。 投手・打者として活躍したというだけでも稀有な選手(他には同時期に同チームで活躍した服部受弘や、近鉄、巨人で投手・打者として活躍した関根潤三など)だが、その双方でレベルの高い活躍を見せた。後年の二刀流・大谷翔平のような投手・打者の同時進行というわけではないが、投手として20勝(1940年)、打者として40本塁打(46本塁打、1950年)の双方を記録したのは日本プロ野球史上では西沢だけである。 バットは、川上哲治も驚くほど極端にグリップの細いものを使っていた。そのため、長谷川良平のシュートには何本もバットを折られ、ある時長谷川に「これ以上シュートを投げないで欲しい」と懇願したという[要出典]。
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