球界復帰・打者転向とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 球界復帰・打者転向の意味・解説 

球界復帰・打者転向

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/25 03:59 UTC 版)

西沢道夫」の記事における「球界復帰・打者転向」の解説

1946年復員し当時中部日本軍復帰。しかし応召中に肩を痛めていたせいで満足な成績残せず、復帰した際には投手として活動できなかったため、ベンチを暖めるようになっていた。更に戦後新入団の杉浦清監督就任して以降チーム内紛続き雰囲気悪くなり、居づらくなっていた。そこに新球団ゴールドスター監督務めていた元同僚であり先輩坪内道典から入団誘われた。打者として再生させるという条件付きだったが、中日嫌な雰囲気から逃れたかった西沢は、シーズン途中ゴールドスター移籍し一塁手転向坪内指導により、打者として再出発図った以来西沢坪内を父のように慕い1949年中日復帰要請した際にも「坪内さんも一員加えてください」と懇願し、共に復帰果たした打者転向3年費やし坪内と共に中日復帰した後はスラッガーとして活躍1949年37本塁打記録。翌1950年46本塁打記録したが、日本プロ野球史上初の50本塁打達成した松竹ロビンス小鶴誠51本)に及ばず本塁打王取れなかった。また、同年シーズンは5本の満塁本塁打放ち、これは現在も日本記録である。 1951年から1952年打撃コーチ兼任1952年打率.353・98打点首位打者打点王の2冠を獲得する。再び打撃コーチ兼任となった1954年には主砲として、チーム初のセ・リーグ優勝日本一貢献した1955年監督務めた天知俊一球団重役栄転し、正捕手野口明選手兼任監督就任野口新監督西沢に「今年一塁手として新人選手獲得したから、今年から外野守ってもらいたい」とコンバート通告した西沢打者転向以来主軸として一塁守っており、新人獲得理由とした転向不本意で、本来ならいがみ合いとなるところだったが、西沢は角突きあいを好まず失踪により抵抗の意を示した結局この行動引退まで一塁ポジションを守る決め手となった1956年助監督兼任1958年に再び打撃コーチ兼任し同年現役引退背番号15永久欠番となったヘッドコーチ監督として復帰後も使用)。中日では服部受弘10含めて2つだけの欠番は、両選手辞めさせるときの「妥協点」という杉下茂談話中日球団史掲載されている。 投手打者として活躍したというだけでも稀有選手(他には同時期にチーム活躍した服部受弘や、近鉄巨人投手打者として活躍した関根潤三など)だが、その双方レベルの高い活躍見せた後年二刀流大谷翔平のような投手打者同時進行というわけではないが、投手として20勝(1940年)、打者として40本塁打46本塁打1950年)の双方記録したのは日本プロ野球史上では西沢だけである。 バットは、川上哲治も驚くほど極端にグリップの細いものを使っていた。そのため、長谷川良平シュートには何本もバット折られ、ある時長谷川に「これ以上シュート投げないで欲しい」と懇願したという[要出典]。

※この「球界復帰・打者転向」の解説は、「西沢道夫」の解説の一部です。
「球界復帰・打者転向」を含む「西沢道夫」の記事については、「西沢道夫」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「球界復帰・打者転向」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「球界復帰・打者転向」の関連用語

球界復帰・打者転向のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



球界復帰・打者転向のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの西沢道夫 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS