中山裕章とは? わかりやすく解説

中山裕章

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/09/07 03:49 UTC 版)

中山 裕章(なかやま ひろあき、1967年11月4日 - )は、高知県高知市出身の元プロ野球選手投手・右投右打)[5]


注釈

  1. ^ 中山の球威は高校生離れしており、名門の高知商高でも中山のボールを捕球できる捕手は中学時代からバッテリーを組んでいた岡村以外にいなかった[17]。岡村は2年生春の紅白戦で二塁にスライディングした際に二塁手と交錯し、胸を二塁手の膝に激突させたことで腎臓破裂の重傷を負い[18]、医師から「一生、運動はしない方が良い」と事実上のドクターストップを掛けられたが、周囲の反対を押し切って3か月後には練習に復帰し、3年生への進級直前には正捕手に返り咲いた[19]
  2. ^ 雨天順延の影響による[22]
  3. ^ 谷脇は本来、中学生を自校の部に勧誘することはなかった[22]
  4. ^ この試合では5対10とリードされた6回1死から登板し、チームは9対10の接戦で敗退した[25]。しかし中山は3回2/3イニングを投げ、清原・桑田を含めて相手打線を被安打1・無失点に抑えた[25]
  5. ^ 一方、1歳年下の野村貴仁高知県立高岡高校宇佐分校へ進学)は自著『告白』 (2016) にて「自分が高校進学する際には高知商高からも勧誘されたが、中山さんに興味を持って高知商高の練習を見学した際には『土佐の怪腕』と呼ばれるほどの剛速球を投げているようには思えなかった。何より中山さんが入学後の校内テストで毎回のように白紙答案を提出していたことが問題視されたため、その次の代である自分たちが高校受験する年(1984年)からは、(高知商高野球部が)一定以上の学力成績を残せる者しか受け入れなくなった。それが許せなかったから、自分で『ここ(高知商高)はダメだ』とすぐに断念した」と述べている[26]
  6. ^ 途中、中山は2週間でランニングを休むようになったが、岡村は毎朝中山を母親に起こさせてともにランニングをした[29]
  7. ^ 岡村も当時の中山を「投げるボールの才能はプロ級」と認めていたが、中山本人は「純粋に野球を楽しみたいだけ」という性格だったため、厳しい練習には身が入らなかった[31]
  8. ^ 『週刊ベースボール』2013年8月19日号に掲載された「夏の甲子園球速ランキング」では夏の甲子園で球速150 km/h以上を記録した投手たちの記録が掲載されているが、表中で最古の記録は中山が1985年夏・第1回戦(藤嶺藤沢戦)で記録した150 km/hとなっている[34]
  9. ^ 週刊ベースボール』(ベースボール・マガジン社)1985年8月26日号では「徳島県立池田高校水野雄仁以来となる最速145 km/h(プロ野球各球団のスカウトが持参したスピードガンの記録)」[36]・同誌同年9月7日号では「日本ハムのスカウトが『150 km/h出た!』と仰天した」とそれぞれ報道された[16]
  10. ^ 球速は146 km/hを記録[38]
  11. ^ この時、清原の金属バットはボールが当たった部分がへこみ、ひび割れた[38]
  12. ^ このホームランは1985年8月20日付『スポーツニッポン』にて「甲子園史上最大のホームラン」と報道されたほか[40]、「推定飛距離160 m」「プロ野球の試合を含めても、甲子園球場開場以来最大の飛距離」などの声も上がった[39]。また、清原自身も自著『男道』 (2009) にて「少年時代から現役引退までに打ち続けた何百本の本塁打の中でも最も記憶に残る一発だ。高校時代にはそれまでも球場にいる全員の度肝を抜くようなホームランを何本も打っていたが、『何の混じり気も不純物もない、ホームランそのものの感触』を味わったのは初めてだった」と評価したほか[41]、2018年5月にスポーツニッポンから取材を受けた際にも「(甲子園で)僕が打った中では一番大きいホームランだと思う」と振り返っている[42]
  13. ^ これにより、KKコンビ相手に初めて1イニングでアベック本塁打を被弾した投手となった[25]
  14. ^ 大会後、谷脇は「中山には桑田以上の素質があったが、桑田以上の努力が足りなかったからPLにも清原にも勝てなかった。しかし、仮に清原・桑田がPLに揃っていなければ優勝できていたかもしれない」と振り返っている[43]
  15. ^ 一部では「意中の球団は阪神タイガース阪急ブレーブス。それ以外の球団は入団拒否する意向」と報道されていたが、本人はドラフト会議前日(1985年11月19日)に「特に好きなチームも嫌いなチームもない。『どのチームか』より指名順位の方が気になる」と述べていた[47]
  16. ^ 同年12月7日に高知商高で湊谷武雄スカウト部長・高松延次スカウトと2度目の入団交渉を行い、正式に契約[48]
  17. ^ 遠藤はこの時、中山に対し「練習は苦しいが、苦しい顔はするな。我慢してニコニコしながらやれば自分も周りも楽しくなる」とアドバイスした[51]。これについて、中山本人は「マスメディアからちやほやされるKKコンビ(清原・桑田)も幸せかもしれないが、日本一の投手(遠藤)からマンツーマンで指導を受けられる自分はもっと幸せだと思った」と述べている[51]
  18. ^ 同年10月13日にナゴヤ球場で開かれた中日戦で初セーブを記録した[52]。3セーブは高卒新人のセ・リーグ記録
  19. ^ 試合後、近藤は中山の投球を「合格点。(チャンスに主力が外野にすら打球を飛ばせなかった)打線が情けない」[54]「中山は打線の援護が思うように入らなくてもよく投げた」と高く評価し[1]、中山本人も『朝日新聞』の取材に対し「江川さんと投げ合えて楽しかった。さんには打たれる気がしなかった」と語っていた[54]。また、この試合では打撃でも2回表2死一・二塁の場面で江川から三塁線に抜ける二塁打(二塁走者・田代富雄が生還し1点適時打。一塁走者・若菜は本塁で憤死)を放ち、プロ初安打・初打点を記録した[1]
  20. ^ 大洋球団の投手が高卒2年目で5勝を挙げたのは中山が最後で、その後は大洋→横浜球団の「高卒2年目の5勝投手」はチーム名が「横浜DeNAベイスターズ」に変更された後の2018年京山将弥が7月28日・広島戦(MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島)で5勝目を記録するまで31年間にわたり現れなかった[56]
  21. ^ それまでの抑え・斉藤明夫が抑え投手としては球速が遅かったことに加え、中山もオープン戦で先発をテストされたが、5回まで持たなかったため、抑えへの転向を命じられた[62]。中山自身は「抑えの場合は調整法がわからないし、自分は先発を目指したい」と先発投手への強いこだわりを見せていたが、同年からは延長12回制となったため、古葉は「斉藤の前にもう1人抑えが欲しい。性格が強気で速い球を投げられる投手は中山しかいない。短いイニングなら集中力を持続でき、先発時に集中力を欠いてミスをすることも少ないだろう」という見立てで中山を抑えに抜擢した[61]
  22. ^ 完封勝利はプロ入り2度目で[72]、5回表の攻撃時には一死三塁の場面で打席に立ち、自らセンター犠牲フライを放ち、1点(決勝点)を取った[71]。この時、須藤は中山へのまじないとして試合前に母校・高知商高の校歌を自ら歌っていた[71]
  23. ^ 12月6日に推定年俸2,450万円(前年比270万円増)を提示されたが、この時は保留した[73]
  24. ^ 翌1991年オフに女性と挙式する予定だったが、同年は成績不振だったため、巻き返しを期して挙式を1992年オフに延期していた[75]
  25. ^ 当時中山を指導していた二軍投手コーチ・野村収は『神奈川新聞』運動部記者・文平英樹の取材に対し「当時も悩んでいた様子はなかった」と証言した[77]
  26. ^ 本来は減額提示だったが「来年の期待料込み」で現状維持となっており、更改後には「今年は途中から気持ちの切り替えができなくなってしまった。来年は制球にも気をつけて勝ち星を取りこぼさないよう気を付けたい」と話していた[76]
  27. ^ しかし事件後、この新居は借金が1億円以上残り、維持できなくなったため売りに出された[81]
  28. ^ 裕章の両親・姉は事件後に帰郷した[75]。両親は息子・裕章が起こした事件の影響で親しかった人と疎遠になったり、周囲の人々に謝罪することを余儀なくされたりしたが、息子が現役復帰を果たすまで献身的に支え続けた[83]
  29. ^ また、中山と仲が良かったという当時の同僚・高橋雅裕は「(当時の中山は)肩の調子が悪く、高校の先輩の須藤監督から小言を多く言われてストレスを溜めていた。また、私生活でつらいことが多かった」と証言している[84]
  30. ^ 被害者3人はいずれも同じ団地の住人で、事件現場となった団地中庭は住宅街の中でも人通りが比較的少なく、以前から痴漢が出没していた場所だったため、地元の警察署(金沢署)が街角・公園などに「変質者に注意」という内容の看板を掲げていた[85]
  31. ^ ベンツは大洋解雇後、元婚約者側の手に渡った[87]。中日時代の1998年版選手名鑑(日刊スポーツ出版社)では「愛車はトヨタ・セルシオ[88]、1999年版選手名鑑(ベースボール・マガジン社)では「愛車はレクサス」と紹介されていた[89]
  32. ^ 被害者少女が犯人の顔を覚えていたため[85]、近隣では事件発生とほぼ同じ11月中旬ごろから子供たちの間で「ベンツに乗ったパンダ顔の男に気を付けよう」という話が広まっており、地元の小学校は在校児童たちに注意を呼び掛けたほか、町内会でも痴漢に注意するよう回覧板を回したり、子供会の集会などでも16時30分を過ぎると親が子供を迎えに行くなど自衛策を講じていた[90]
  33. ^ 11月中旬過ぎ時点で一部マスメディアに「大洋の選手が逮捕される」という情報が流れていたが、地元紙記者は『週刊文春』(文藝春秋社)の取材に対し「同年10月1日に旭区内で行方不明になった小学3年生の少女の事件との関連を捜査したが、これはすぐにシロと判明した。逮捕が年末までずれ込んだ最大の理由は、神奈川県警が『中山が地元球団のエース級投手である』ことから社会的影響を考え、テレビのワイドショー・週刊誌の休みとなる年末年始に逮捕・釈放できるよう、慎重にタイミングを計ったためだ」と証言した[44]
  34. ^ また捜査一課は身体検査令状などに基づき[93]、事件証拠の裏付けとして被疑者・中山の血液を採取した上で、その血液を事件の際に残された犯人の資料とともに科学警察研究所へ提出してDNA型鑑定を実施した[94][95]
  35. ^ この時、『週刊新潮』の大洋担当記者は「中山と被害者3家族との間に示談が成立したが、大洋球団が1家族につき1,000万円=計3,000万円の示談金を肩代わりした」と証言した[101]
  36. ^ 金沢署が中山を逮捕した直後、若生は記者会見で「中山がそのようなことをするとは想像できないし、噂にも聞いていなかった」と述べていた[108]
  37. ^ 地元・横浜市の高秀秀信市長は「ファンとして(中山を)『将来の大洋ホエールズを背負って立つ若手投手』として期待していただけに、非常に残念だ」と[109]コミッショナーも「事件の様子を聞くと変質者だったのかもしれない。甚だ遺憾の一言だ」と声明を出した[8]。また、熱烈な大洋ファンとして知られていた中野孝次(作家)は「これからのチームを担う中心選手として中山を一番頼りにしていたのに、裏切られた思いだ。プロの世界は誘惑が多いので、八百長みたいな事件ならまだ同情の余地が残るが、今回は人間として最低の行為。絶対に許せない」と中山を非難した[109]
  38. ^ 須藤は身柄を球団に一任した上で監督解任を含め自身へのペナルティを申し出たが[110]、岡崎球団社長は「須藤自身へのペナルティは考えるが、監督解任は考えていない」と述べた[113]
  39. ^ 『神奈川新聞』も1992年1月6日朝刊で「球団は解雇も含め厳しい処分を検討していたが、早期に被害者側と示談が成立したことで球団内では『最悪の事態は回避できた』という雰囲気が強い。処分は解雇にまで至らない可能性が出てきた」と報道していた[119]
  40. ^ 仮に失格選手の烙印を押されればそれ以降、中山は「野球以外の道を歩むことさえ大きな障害になる」とされたため、形式上とはいえ復帰への道を残したことは「せめてもの温情」とされた[123]
  41. ^ 中山自身はこの点に関して「面倒見の良かった須藤監督を含め多くの人に迷惑をかけて申し訳ない」と述べている[83]
  42. ^ 女性は中山が寺へ修行に入る前、中山の恩師・谷脇と会った際に「中山はもう有名人ではなくサラリーマンとして地道に暮らさなければいけないが、それでもいいのなら一緒にいてやってほしい。それが嫌なら今すぐ別れてくれ」と諭された際には「このまま頑張る」と答えていた[81]
  43. ^ 婚約者側の母親は『週刊新潮』(新潮社)の取材に対し「中山とその家族は被害者側に莫大な慰謝料を支払った一方、あれだけの事件を起こしておいてうちには一切謝りに来なかった。こちらから話し合おうと電話を掛けても名乗った瞬間に電話を切られ、話し合いどころではない。あんな人間に娘をやれるわけがない」と中山を非難した[55]。中山側は婚約者が書かせた「念書」について[87]、中山本人や知人は「婚約者に無理矢理書かされたようなもの」と証言したが[55]、婚約者の母親は「(自分は)娘のためにウェディングドレスを用意していた。計画的に別れるつもりならそのようなことはしない」と主張していた[131]。婚約者本人は『週刊現代』『週刊文春』の取材に対し「はじめは自分も中山も互いに別れる気はなかったし、中山は釈放後に『結婚する』と約束した」[132]「婚約破棄は中山が一方的に電話で『母親が“別れたら阪神に入れる”と言っているから別れることにした。約束通り5,000万円払うから別れてくれ』と言ってきた」と証言した[131]
  44. ^ 中山側は当初「非を認めるようなことはしない」として元婚約者側が申し付けた和解案を拒否し、判決で解決を図ろうとしていた[131]。ただし和解成立は婚約不履行に関してのみで、車の件など2件については(中日入団決定時点でも)係争中だった[133]
  45. ^ 会見は「担当記者1人の代表質問に対し本人が答える」という非公開形式で、中山自身の希望により「事件に関しての質問には一切触れない」という条件で行われた[134]。古巣・大洋の須藤監督は同日、中山について「自らを戒め、世に尽くす精神・行動力を身に着けてほしい」とコメントした[134]
  46. ^ 亀井は中山が修行に入った当時、『中日新聞』の取材に対し「本人からお寺で修行したいと言っていたので佛現寺を紹介した」と述べていた[137]
  47. ^ 『週刊新潮』の大洋担当記者は「身分照会をしてきた球団は大洋と友好関係にあるミルウォーキー・ブルワーズだろう。球団幹部のレイ・ポイトベントが日本人を妻に持つ親日家である上、かつて大洋に所属していたカルロス・ポンセもブルワーズ出身だ」と証言した[138]。また『週刊朝日』(朝日新聞社)は「中山を勧誘している球団はメジャー傘下の3A(AAA級)球団だろう。須藤監督が巨人の二軍監督時代(1986年 - 1989年)にアリゾナ州で開かれた教育リーグに毎年参加していた縁から知人も多く、中山にアメリカでの球界復帰を望んでいるようだ」と報道していた[139]
  48. ^ この米球界からの誘いに関しては「アメリカでは少年少女への性犯罪はタブーで、それを犯した中山は受け入れられないだろう」と否定的な見方があった一方[139]永谷脩は「アメリカではキリスト教の精神から罪を犯したものでもそれを償えば赦す傾向がある。そのような場所でマイナーリーグ(ルーキーリーグ)から大リーグを目指し、ハングリーな生活をしながらやり直していく覚悟が中山本人にあれば可能だろう」と述べており[118]玉木正之(スポーツライター)も「中山にとっては1人で渡米してシビアな世界で生きていくことこそ社会復帰だろう」と述べていた[139]
  49. ^ 韓国(KBOリーグ)移籍は規約の問題から不可能だったほか、台湾・中華職業棒球聯盟 (CPBL) の場合も「国民性から難しい」とする見方があったが、永谷は「台湾には大洋球団の親会社・大洋漁業の拠点がある。相手の受け入れさえできていれば、台湾球界入りできる可能性もある」と述べていた[118]
  50. ^ 『週刊文春』1992年4月30日・5月7日ゴールデンウィーク特別号では大洋球団前社長・久野修慈の「港湾安全協会のある幹部から紹介を受けた」とする証言が掲載されている[81]
  51. ^ 入谷は大洋球団でトレーナーを務めていたことがあり[81]、採用時には中山に対し、事件のことには触れず、「婚約者との告訴問題などをすべてきちんとしてから丸裸になって出直せ」とアドバイスを送っていた[75]。また中日の岡田英津也編成部長とは明治大学硬式野球部でチームメイトだったほか[142]、星野仙一前監督も同じく明治大学出身だったため、中日が中山を獲得した背景としてその点を指摘する報道もあった[143]
  52. ^ 高知新聞』 (2005) は「現役引退後に起業して以降も、かつて世話になった港湾関係者から貸倉庫の世話になっている」と報じている[144]。中山の事情は社内でも知られてはいたが、当時の上司は「プロ野球選手だったことからみな歓迎してくれた」と証言しており[81]、中山は自身と同年代の若者が約30人いた社内にすぐ溶け込んだ[145]
  53. ^ 残業代を含めて20万円弱[81]
  54. ^ その理由について本人は(野球道具は)「見る気にもなれず、だからといって捨てることもできなかった」と述べている[75]
  55. ^ 当初の目標は同年2月末までに10万人分を集めることだった[148]
  56. ^ 大洋の後身である横浜ベイスターズ・岡崎球団社長はベイスターズの中山獲得を否定したものの「球団としては解雇したので公式にはコメントできないが、個人的には会長の恩情で自分たち以外の球団が中山を採用し、中山が再び投げられることはいいことだと思う」とコメントした[150]
  57. ^ 懇話会座長を務めた中村は「少なくとも『元婚約者との間で継続している裁判が片付かない限り、会長声明を解除することは世論が許さないだろう』と懸念している」と理由を説明した上で[155]「今後、和解などで訴訟の問題が解決した場合は再度懇話会を開きたい」と述べた[154]ほか、解除を検討していた川島も「いろいろな角度から検討していただいた。重く受け止めたい」とその結論を尊重する意向を示した[155]
  58. ^ この時、セ・リーグ機構は同じく契約自粛を求めていたMLBに対しても同種の要請解除文書を郵送した[166]
  59. ^ 高木は中山が解雇された際、「本来なら永久追放でも仕方のないところだ。野球界の人気低迷が囁かれている中で起きた事件であり、球界が襟を正すための1つの契機になるのではないかとは思う。ただ、自分としては『甘い』と言われるだろうが、アメリカのように球界復帰への道を残してやるのも必要ではないかと思う」とコメントしていた[121]
  60. ^ 村山望は『新潮45』2004年10月号(新潮社)にて「過去の事件のために解説者は中山が登板する際に気を遣ったほか、相手チームの選手にとっても同様に中山は野次りにくい選手だった」と述べた[180]
  61. ^ 6回表に5回13被安打5失点の投球内容で降板[187]
  62. ^ その後も中日時代は8年間にわたり、登板する度に常に野次を浴びせられてはいたが、中山自身は「気にはなっても何も言わない。言ったところで仕方がない」と割り切っていたほか、チームメイトが中山へ野次を飛ばす観客に対し「うるせえんだよ!」と怒鳴りつける場合もあった[83]。中山自身はそのようなチームメイトと同じ球団でプレーしていた中日時代について「中日に入って良かった」と感じてはいたが、事件のことが負い目になっていたためか、彼らとあまり親密に付き合おうとはしなかった[83]
  63. ^ ベースボール・マガジン社(1994)による同年の中日対横浜戦の記録によれば[188]、同年の横浜戦で中山が登板した試合は7月27日・第18回戦(ナゴヤ球場 / ドウェイン・ヘンリーに続き3番手投手として登板・勝敗つかず)のみ[189]
  64. ^ この時は47番も提示されたが、本人は愛着のある19番を選択した[190]
  65. ^ 中日は1994年に10.8決戦で敗れ、リーグ優勝を逃したが、当時は絶対的な抑え投手が不在だったため、1995年シーズンに向け抑え投手が課題となっていた[192]
  66. ^ チームの低迷を受けてシーズン途中(6月2日限り)で高木監督が辞任し、その代行を務めた徳武定祐コーチもシーズン閉幕を待たずに解任されたため、閉幕まで島野育夫コーチが監督代行の代行を務めていた。
  67. ^ この勝利は高木監督のシーズン途中解任を受け、監督代行を務めていた徳武定祐コーチが指揮を執り始めて2試合目にしての初勝利でもあった[197]
  68. ^ 韓国球界ヘテ・タイガースから加入[199]
  69. ^ 星野は1987年 - 1991年(当時、中山は大洋に在籍)にも中日の監督を務めていたため、5年ぶりの復帰となった。
  70. ^ 野村はこの時、中山の選出について「現在・未来が大切で過去は問わない」とする談話を発表した上で[206][207]「本人は魔が差してしまったこともあったが(社会的制裁を受けるなどして)苦しんだことであり、現在は自分としては問題視はしていない。喜んでオールスターに出場してほしい」と激励した[206]。中山は同日、野村が監督を務めるヤクルトとの試合前に野村に挨拶し、「選出されるとは思っていなかったので感謝しています。(高校時代に甲子園で対決した)清原和博選手(西武ライオンズ所属)と対決して抑えたい」と抱負を語り[206]、『中日新聞』の取材に対しては「前半戦の内容はそんなに良くない。選ばれた以上は打たれないよう一生懸命に投げる」と述べた[208]
  71. ^ 阪神・伊藤敦規に次ぎリーグ2位[212]
  72. ^ 勝利数は山本昌(18勝/セ・リーグ最多勝)、門倉健(10勝)に次ぐチーム3位[215]
  73. ^ 2001年の登板試合は8月1日(対巨人19回戦・東京ドーム[231]、8月4日(対ヤクルト17回戦・明治神宮野球場[232]、8月16日(対巨人23回戦・ナゴヤドーム)[233]、8月22日(対広島東洋カープ19回戦・広島市民球場[3]の4試合。
  74. ^ 中山の中信入団後、2003年ごろにはCPBLの規約に前科・重大な規律違反があった外国人選手を扱う内容が新たに追加されている[238]
  75. ^ 郭李は中山の退団を惜しみ「奥さんが日本で出産する事情があるとはいえ、まだ台湾で現役続行してほしかった」とコメントした[243]
  76. ^ また台湾の公用語である国語標準中国語)も覚え、チームの人気者になっていた[244]
  77. ^ 中山本人は2005年に『高知新聞』記者・土橋宏史からの取材に対し「まだ(現役で)やれたが、(子供の誕生を控え)妻が帰国を望んだためだ」と述べている[144]
  78. ^ 『週刊ベースボール』2003年10月6日号では「妊娠5か月の妻が5か月後に出産を控えている」と報道されているが[244]、『週刊アサヒ芸能』2004年5月20日号では「2003年10月に男児が誕生した」と報道されている[83]
  79. ^ これに対し中信球団側は「来季(2004年)も台湾でプレーしてほしい」と慰留したが、退団の決意を翻意することはなかった[244]
  80. ^ 試合前、中信・林仲秋監督は中山に「この試合が台湾でのラストゲームだから、今日は絶対に勝て。勝たなかったら日本に帰国させないぞ」とハッパをかけていた[243]。またこの引退試合を観戦していた『毎日新聞』記者・飯田和郎は「憂楽帳」にて「中山はこれから人生の新しいイニング』をどう投げるのだろうか。大洋時代の事件の罪を償ってもその過去は重く、日本に帰国しても他人の視線を覚悟しなければならないが、彼がヒーローインタビューで述べたように、台湾で過ごした日々が彼を成長させたと信じたい」と述べている[245][246]
  81. ^ このころには新たな事業を始めるため中華人民共和国(中国)の工場を視察しており、記者から「大洋でエースだった時代が黄金時代だったのか?」と尋ねられると「これからだと思う。家族のためにこれから頑張らなければいけない」と答えていた[83]。また同年には村山望(ノンフィクションライター)が中山の実家・友人を介して中山本人と連絡を試みたが、中山はその直前に商談のため台湾へ出張していた[180]
  82. ^ 桑田は中山が1994年に中日の支配下選手として登録された際、電話で「一緒に頑張ろうぜ」と声を掛けている[128]

出典

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  4. ^ 球員個人紀錄:中山裕章 逐場成績表 2003 一軍” (中国語). 中華職棒大聯盟全球資訊網 The Official Site of CPBL. 中華職業棒球大聯盟. 2020年10月17日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年10月17日閲覧。
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  6. ^ a b c 森岡浩 2004, p. 217.
  7. ^ a b c d e f g h 神奈川新聞』1991年12月26日B版第一社会面23頁「大洋・中山投手が“暴投” 金沢区で2少女にいたずら 県警逮捕 婚約中、練習帰りに 張り込み、ベンツで出没」(神奈川新聞社)
  8. ^ a b c d e f g h 中日新聞』1991年12月26日朝刊第一社会面23頁「大洋・中山投手を逮捕 神奈川 少女に連続いたずら 『彼女に会えず不満』」(中日新聞社
  9. ^ a b c d e 『神奈川新聞』1992年1月8日B版第一スポーツ面31頁「横浜大洋 中山投手を『解雇』 監督戒告、社長ら減俸」(神奈川新聞社)
  10. ^ a b c d e 『中日新聞』1992年1月8日朝刊第二社会面26頁「大洋 中山投手を解雇 球団社長らも処分 復帰は事実上無理」(中日新聞社)
  11. ^ a b c d 『中日新聞』1992年1月8日朝刊第一スポーツ面23頁「解説/ 中山投手解雇 『失格』避け復帰に細道 更生が条件 厳しさの中に温情も」(中日新聞社 記者:会田豊彦
  12. ^ a b 『神奈川新聞』1993年12月25日朝刊A版第一スポーツ面13頁「契約自粛の解除文郵送 中山問題でセ会長」(神奈川新聞社)
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  249. ^ 「優勝中日ドラゴンズ '99Vの軌跡 1999 Central's Championship」『月刊ドラゴンズ』1999年10月臨時増刊号、中日新聞社、1999年10月1日、63頁。 (※協力:中日スポーツ
  250. ^ 單月MVP 2002年9月” (中国語). 中華職棒大聯盟全球資訊網 The Official Site of CPBL. 中華職業棒球大聯盟 (2002年9月). 2020年10月17日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年10月17日閲覧。
  251. ^ 單月MVP 2003年4月” (中国語). 中華職棒大聯盟全球資訊網 The Official Site of CPBL. 中華職業棒球大聯盟 (2003年4月). 2020年10月17日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年10月17日閲覧。


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