独立党の活動
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金玉均・朴泳孝・徐載弼ら独立党の人士が朝鮮の開化をめざして日本に接近したのは1870年代後葉にさかのぼる。 金玉均は、近代的技術の導入と軍事力強化のために洋務開化論を唱えた右議政(副首相に相当)朴珪寿の影響を強く受けた。朴珪寿自身は1877年に没したので、1880年代の指導者とはならなかったが、その指導下には朴泳孝、朴泳教、徐載弼、洪英植らの開化派が形成され、清国との関係を維持しながら近代化を進めようとする金宏集、金允植、魚允中、兪吉濬ら穏健開化派も元来は同じ系統に属していた。 1879年(明治12年)、金玉均らは仏僧の李東仁を日本に密入国させ、福澤諭吉や後藤象二郎をはじめ一足先に近代化を果たした日本の政財界の代表者達に接触し、交流を深めていった。 金玉均自身の最初の訪日は1882年3月から同年の8月までであった。これは、自身が高宗にはたらきかけた結果実現したもので、高宗は金玉均、朴泳孝、閔泳翊、徐光範の4人を日本に派遣しようとしたが、朴泳孝と閔泳翊は都合がつかず、31歳の金玉均と23歳の徐光範の派遣となった。金玉均は長崎で地方議会、裁判所、小中学校・師範学校、電信施設などを視察、大坂では府知事と会見して練兵場、印刷所、建設会社などを見学、京都では府庁を訪問したほか盲唖院その他を見学している。東京では福澤諭吉と親しく交わり、主要な施設を精力的に視察した。また、福澤の紹介などによって井上馨、大隈重信、榎本武揚、副島種臣、渋沢栄一、大倉喜八郎、内田良平をはじめ、官民問わず多数の人びとと会合した。さらに横浜の清国公使館はじめ各国の領事館等もくまなく訪問し、海外事情の収集にも尽力した。金玉均らが壬午軍乱発生の報に初めて接したのは、その帰途の山口県下関においてであり、大院君拉致事件を知ったのは仁川においてであった。 壬午軍乱は、呉長慶や丁汝昌らを中心とする清国軍が、乱の首謀者で国王の父興宣大院君を拉致して中国の天津に連行したことで収束した。復活した高宗と閔氏の政権は清国の制度にならった政治改革をおこなった。朝鮮はまた、清国軍3,000名、日本軍200名弱の首都漢城(現、ソウル)への駐留という事態を引き受けざるを得なくなった。上述のとおり、朝鮮は清国より中朝商民水陸貿易章程を押し付けられることとなり、開化政策は清国主導で進められることがはっきりとしてきた。一方、朝鮮政府は、軍乱後に日朝間で結んだ済物浦条約の規定によって1882年10月に謝罪使として朴泳孝を特命全権大使、金晩植を副使、徐光範、閔泳翊、徐載弼、柳赫魯らを従事官とする総勢約20名を派遣した。金玉均は書記官の肩書で顧問としてこれに加わった。一行は同年12月まで日本に滞在し、朴泳孝らは明治天皇に謁見、政府高官とも接触して朝鮮独立援助を要請、さらに福澤諭吉ら多くの日本の知識人と親交を結んで海外事情や新知識を獲得した。 朝鮮の自主独立を標榜してきた日本としては好機到来といえたが、軍乱後の朝鮮は清国の制圧下にあり、政府部内も山縣有朋らの積極的関与論と井上馨らの不干渉論に分かれた。閣議は積極的援助を避けながらも限定的に朝鮮独立を支援するという折衷論に決定した。軍乱の償金支払いを済物浦条約で規定された5年間から10年間へと年限を緩和し、横浜正金銀行からは17万円の借款が供与された。この訪日は、金玉均にとって2度目にあたったが、12月に朴泳孝ら10名が朝鮮へ帰国してのちも徐光範らとともに日本にとどまり、政財界人や外国使節とも会って交流を深め、1883年3月まで日本に滞在した。 一方、軍乱後に王宮にもどった閔妃は潜伏していた忠州で知り合った巫女を王室の賓客として遇し、厚く崇敬して毎日2回の祭祀を欠かさないほどであった。閔氏一族や政府高官も加わった祭祀は、やがてこれにかかる費用は莫大なものとなった。朝鮮全土の宗教者も王宮に集まってこれを占拠する状態となり、売官が再流行して朝鮮半島の政治はいっそう混迷の度を深めた。壬午軍乱後、李鴻章によって朝鮮政府の外交顧問に推薦され、その任についたドイツ人パウル・ゲオルク・フォン・メレンドルフは、釜山、元山、仁川の3港に設けた税関を管掌していたが、閔氏政権の重鎮で閔妃の甥にあたる閔泳翊と謀って税関収入の一部を閔妃個人のために支出した。さらに1883年、朝鮮の国庫の窮状を知ったメレンドルフは「当五銭」という悪貨の鋳造を朝鮮政府に勧め、これは漢城、江華島、平壌で大量に鋳造されたが、金玉均ら独立党は、インフレーションをまねき、人民の経済生活に大混乱を生じかねない当五銭に強い危機感をいだいて猛烈と反対し、その代案として日本などからの借款の獲得をめざした。勢道政治を進める閔氏やメレンドルフからすれば、あくまでも正論を唱える金玉均は邪魔者でしかなかった。
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