木製プラグの採用と、弾薬包への改良
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「エンフィールド銃」の記事における「木製プラグの採用と、弾薬包への改良」の解説
1855年半ばにエンフィールド弾の鉄製カップに様々な欠点がある事が判明した事から、ハイス(英:Hythe, Kent)では、4種の弾丸がテストで比較され、数日間にわたって1240発もの弾丸が射撃されていた。4種のうち、3種の弾丸は、それぞれ違うバリエーションの鉄製カップが挿入されていた。一種目は、ウーリッジ製の半球型鉄製カップ、二種目はハイス(英:Hythe, Kent)製の不完全形状の鉄製カップ、三種目は、ヘイ大佐と、かつて1852年のトライアルに参加したガンメーカーであるチャールズ・ランカスターが共同で開発した指貫型の鉄製カップで、これは鉄製カップの中心に小さな穴が開けられており、これにより鉄製カップが抜け落ちる事を防止した。 四種目の弾丸には、木製のプラグが挿入されていた。これは新たなアイデアではなかったが、以前まではあまり評価も高くなかった。しかし、ヘイ大佐は、弾丸を確実に拡張させられるであろう「コーン型」の形状の鉄製カップを手に入れる事が出来なかったため、代わりにこのコーン型の木製プラグは試されていた。 ヘイ大佐は、3種類の鉄製カップをそれぞれ挿入した弾丸と、木製プラグを挿入した弾丸をテストした。ヒューマンエラーが無いようにする為、固定レストに銃を搭載し、射撃精度に影響を与えないようにする為に、同じ天気の日に射撃を行った。ターゲットは、18×18フィート(5.49メートル)の四角ターゲットであった。最初に発射された弾丸は、ハイス(英:Hythe, Kent)製の不完全形状の鉄製カップを挿入した弾丸で、200発ほどが600ヤード先のターゲットに連続して射撃された。これらの弾丸は、一瞬で拡張し、そして装填がとてもしやすく、200発目の最後の弾丸も、1発目を装填した時と同じくらい装填が容易かった。600ヤードにおいての射撃での性能指数は、3.61フィート(1.1メートル)から4.40フィート(1.34メートル)と、平凡的な射撃性能であった。 次に、指貫型鉄製カップを挿入した弾丸が試された。これは発射時にすぐに拡張したために、600ヤードにおいての性能指数は非常に良く、2.64フィート(0.8メートル)であった。3つ目の、100発ものウーリッジ製の半球型鉄製カップを挿入した弾丸は、4種の弾丸の中で最も悪く、最初の30発の性能指数は5.17フィート(1.58メートル)で、その30発のうちの一発は、ターゲットを完全に外した。そして再度30発の射撃を行った所、より性能は酷くなり、性能指数は5.73フィート(1.75メートル)で、30発のうちの3発が完全にターゲットを外した。800ヤードにおいては、性能指数は9フィート(2.74メートル)となり、25発中5発がターゲットを外した。 4つ目の、木製プラグを挿入した弾丸は、他3つの弾丸を性能面で凌駕した。20発の射撃を行った所、600ヤードにおいての性能指数は2.35フィート(0.72メートル)で、800ヤードで同じく20発の射撃を行った所、性能指数は3.57(1.09メートル)であった。600ヤード先の射撃において、プリチェット弾の600ヤードにおける性能指数は3フィート(0.91メートル)ほどであったので、木製プラグを挿入した弾丸がいかに優れているかが理解できる。 ヘイ大佐は、報告書を完成させる前に、指貫型鉄製カップを挿入した弾丸、ウーリッジ製の半球型鉄製カップを挿入した弾丸、そして木製プラグを挿入した弾丸の3種をテストした。其々150発ずつ、600ヤード先のターゲットにクリーニング無しで射撃された。木製プラグを挿入した弾丸が、他の2種の弾丸の中で最も良く、発射された150発全弾がターゲットに命中し、150発中の50発は2.29フィート(0.7メートル)の性能指数を出した。指貫型鉄製カップを挿入した弾丸は、150発中4発がターゲットを外して4.21フィート(1.28メートル)の性能指数を出し、ウーリッジ製の半球型鉄製カップを挿入した弾丸は、14発がターゲットを外し、7.41フィート(2.26メール)の性能指数を出した。このテストでも、木製プラグを挿入した弾丸が最も優秀であった。 ヘイ大佐は、1855年6月5日に報告書を完成させ、木製プラグは、精度は非常に高く、ファウリングもかなり低い事から高い評価がなされた。ジョン・アンダーソンが、かなり短い期間で木製プラグ生産機を製造した。彼は、機械を一から設計する必要が無く、イギリスのウーリッジの王立研究所(英:Royal Arsenal)に、砲弾用の木製サボットを生産するための機械が存在していたので、彼はそれのミニチュア版を作成するだけで良かった。1855年の終わり頃には、王立研究所(英:Royal Arsenal)にて初めて木製プラグ生産機が稼働を開始した。 木は、通水性があり、水を吸った時により大きく、乾いた時により小さくなるため、木製プラグは、乾いた時により小さくなって弾丸の空洞部分から抜け落ちたり、湿った時に膨張して弾丸の直径を大きくしてしまったりすると考えられた。そのため、木製プラグはまだ採用する事ができなかった。 そのために様々な種類の木材を用意し、それぞれをオーブンに入れて130℃~150℃の温度で2時間ほど加熱し、焼かれたそれぞれのプラグを弾丸の空洞内に挿入し、そしてそれらの弾丸を弾薬包紙に包んで振った後、射撃を行うという実験を行った。様々な種類の木材の中で、ツゲが最も湿度や熱によって形が変形せず、弾薬包が振られても、挿入された位置から動く事はなかった。そのためツゲの木製プラグを挿入したエンフィールド弾は、非常に精度が高かった。この様にして、エンフィールド弾に木製プラグが採用された。 木製プラグを挿入したエンフィールド弾が採用されても、弾薬包紙と、弾薬包の製造方法への急な変更はなく、1856年の1月1日に新しく更新された兵士用のマニュアルには、緊急時においての弾薬包の作り方が変更されていなかった。マニュアルでは、以下の通りに作るよう書かれていた。 用意する物・・・黒色火薬が入った錫製計量カップ5つ(全部合わせて68グレインの火薬となる)、錫製の漏斗5つ、鉄製の直定規、大型ナイフ、堅木の心棒5つ、形作プラグ、紙を規定の形状に切るための錫製の型、弾薬包紙、白紙、弾丸 弾薬包紙を、錫製の型に沿って切る。 四角形の内側弾薬包紙を、小型の不等辺四辺形の弾薬包紙の短い方の辺に沿って乗せる。 心棒を四角形の内側弾薬包紙の上底に乗せ、しっかりと心棒で弾薬包紙を巻く。 小型の不当辺四辺形の内側弾薬包紙の余った部分を心棒の空洞に畳み込む。 形作プラグで畳み込んだ部分をより深く押し込む。 そうしたら、小型の筒(以降「薬室」と呼ぶ)が出来るので、それの底を見て、穴が無い事を確認する。 弾丸の先端を、薬室を嵌めた心棒の空洞へと結合させる。 そしてそのままそれを、大型の不等辺四辺形の外側弾薬包紙に乗せ、しっかりと心棒で弾薬包紙を巻く。 そうしたら、弾薬包が出来るので、弾薬包の余った紙の部分を折った後、それを弾丸の空洞内に形作プラグで押し込む。 弾薬包を右手でテーブルの上に置き、そのまま押さえながら、左手で心棒を抜く。 錫製の漏斗を弾薬包の先端の空洞に入れ、68グレインの火薬を流し込む。 漏斗を取り出し、火薬が全て薬室内に入るようにする。 弾薬包の先端を指で摘み、ねじる。 最後に、弾薬包の底、弾丸が内蔵されている部分を、獣脂と蜜蝋が6:1の割合で出来ているグリースに漬ける。 完成。 ここで変更されていなかったのは、9番目の手順の「余った紙の部分を折った後、それを弾丸の空洞内に形作プラグで押し込む」という所であった。エンフィールド銃の弾丸であるプリチェット弾と、鉄製カップを挿入したエンフィールド弾には、弾底部に浅い空洞があったので、この様な手順がとられており、他にもこの「折る」方法とは別で、「弾薬包の底の余った部分の紙を捻って、それを弾丸の空洞内に形作プラグで押し込む」という方法も、他のマニュアルに存在していた。 木製プラグを挿入したエンフィールド弾は、弾底部に浅い空洞がなかったので、上記の二つの方法で弾薬包を作る事が不可能であった。そのため、「弾薬包の底の余った部分の紙を弾丸の底部に沿って折る」という方法に戻された。しかしすぐに、王立研究所(英:Royal Arsenal)で、「弾薬包の底の余った部分の紙を弾丸の底部に沿って折る」という方法で作られた弾薬包の弾丸が、銃身の底にラムロッドで押し込まれる際に、自身を包んでいる弾薬包紙を貫通してしまうという問題が判明した。 この問題の原因は、弾薬包の底の折られた部分が、展開してしまう事にあった。エンフィールド弾は、銃身にキツく嵌る事によって大きくなる摩擦や、ファウリングなどによって銃身にこびり付いた汚れなどで、装填の際に強く抵抗がかかり、自身を包む弾薬包紙が剥がれてしまったこの問題は、弾丸がグリースに漬けた弾薬包紙に包まれて無い丸裸の状態で装填されてしまう事を意味しており、そのような弾丸は、ファウリングを大量に発生させてしまう。しかし、弾薬包の製造を手作業から、機械に移行しようとしていたため、弾薬包の型や、作り方を変更することは躊躇われた。 手作業による弾薬包の製造は、沢山の幼い男子を兵士よりも高い給料で雇ったために高額になり、男子達は作業中に気が動転してしまう事で製造速度は遅くなり、作業量の大小で給料が変動したために、男子達は急いで弾薬包を製造し、それによってミスを多発してしまう事で、弾薬包の品質が低下するなど、様々な欠点があった。そこで、手作業の製造に比べて、精密かつ安く大量の弾薬包を製造する事が出来るシームレスパケット製造機の技術を用いる事で、費用節約はもちろん、弾薬包の品質低下も無くせる事も出来た。 シームレスパケット製造の技術を取り入れた弾薬包製造機は、王立研究所(英:Royal Arsenal)に新しく建てられた工場に設けられた。1853年11月には、初めてこの機械によって弾薬包が製造され(この機械で製造された弾薬包を「バッグカートリッジ」と呼んだ)、通常の弾薬包と比較するためにハイスへと送られた。 テストでは、120発が発砲され、1854年3月にはヘイ大佐によってレポートが送られた。バッグカートリッジが、通常の弾薬包より総合的に優れていた事は明らかで、簡単に装填が出来、射撃精度はかなりの高精度で、シームレスバッグのデザインはかなり良く、紙に折り目や継ぎ目がないため、火薬の漏れなどが全くなかった。総じて評価はかなり高かったが、一つだけ問題が存在しており、バッグカートリッジは通常の弾薬包より柔く、銃身内に火薬を流し込みにくかった。そのため、ヘイ大佐はバッグカートリッジをより固くするべきだと考えた。 しかし、バッグカートリッジをグリース漬けにした際に、グリースが中に溶け込んでしまうという新たな問題が判明された。初めは、弾丸の先端だけにグリースを塗るという改良を行なったものの、グリースは潤滑剤として機能せず、銃身内のファウリングを防止する事が出来なかった。そのため装填はとても困難になった。 1855年、ヘイ大佐は、木製プラグを挿入したエンフィールド弾は弾底部に空洞が無い事から、弾薬包紙の余った部分を空洞内に畳み込んだり、ねじ込んだりする必要がないため、バッグカートリッジがエンフィールド弾により良く適合するだろうと期待した。しかし、バッグカートリッジは、わずかに多孔質であるために湿りやすい事や、カートリッジ内の薬室と、弾丸の先端の結合部分が緩い事などの問題が判明したため、1857年までにはバッグカートリッジがすぐに通常の弾薬包に代わって軍に採用されない事が明白となった。 この現実を考慮して、王立研究所(英:Royal Arsenal)は、通常の弾薬包への改良を始めた。まず初めに、弾薬包紙に改良が加えられ、薄く、かつ強固になった。次に、内側の弾丸包紙をより長くした。内側の弾丸包紙の延長によって、弾薬包の厚みがより増え、火薬の漏れや、湿りを防いだ。そして、弾薬包の底の余った部分の紙は、折ったり捻ったりせず、紐で絞めるようにした。底部の余った部分の紙を紐で絞めるようにした事で、発射時、銃口から弾薬包紙に包まれた弾丸が飛び出した際に、弾丸を包む紙が分解と分離をせず、グリースの粘着性によって弾丸の底部や、木製プラグに引っ付き、飛行中に奇妙な音を発してターゲットを外すという現象がエンフィールド銃に見られたため、弾薬包の下部に、3つの「切れ目」が加えられた。これによって、弾丸が銃口から飛び出した際に、弾丸を包む紙が、綺麗に剥がれ落ちるため、この現象は解消された。このような様々な改良を加えて、1857年型弾薬包が開発された。 1857年型エンフィールド弾薬包は、それまでの弾薬包よりかなり良く、手作りであり、高額になってしまうというデメリットはあるものの、バッグカートリッジと全く同じようなメリットを持っていた。特に良かったのは、弾薬包の底の余った部分の紙を紐で絞めるようにした事で、弾丸が、装填時に自身を包んでいる弾薬包紙を貫通してしまう問題をほぼ解消し、弾丸が内蔵されている部分に付着しているグリースは、装填時に、銃身の底までしっかり塗られ、ファウリングをより防ぐ事が出来た。そして、それまでエンフィールド弾薬包のグリースは蜜蝋と獣脂を1:5の割合で構成したものであったが、1857年8月には、弾薬包のグリースが蜜蝋と獣脂を5:1の割合で構成したものとなった。
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