日本労働組合総評議会とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > デジタル大辞泉 > 日本労働組合総評議会の意味・解説 

にほん‐ろうどうくみあいそうひょうぎかい〔‐ラウドウくみあひソウヒヤウギクワイ〕【日本労働組合総評議会】

読み方:にほんろうどうくみあいそうひょうぎかい

総評【二】正式名称


日本労働組合総評議会

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/04 03:10 UTC 版)

日本労働組合総評議会
(総評)
General Council of Trade Unions of Japan (JCTU)
設立年月日 1950年(昭和25年)7月11日
解散年月日 1989年(平成元年)11月
後継組織 日本労働組合総連合会
総評センター
組織形態 ナショナルセンター
加盟団体数 50単産(うちオブザーバー加盟1単産)[1]
組合員数 391万人
国籍 日本
本部所在地 101-0062
東京都千代田区神田駿河台3丁目2-11 総評会館(現・連合会館)
北緯35度41分44.7秒 東経139度45分55.6秒 / 北緯35.695750度 東経139.765444度 / 35.695750; 139.765444
支持政党 日本社会党

日本労働組合総評議会(にほんろうどうくみあいそうひょうぎかい)は、かつて存在した日本における労働組合ナショナルセンター。略称は総評(そうひょう)。1950年に設立され、日本社会党を支持・議員を多数輩出し、戦後日本における最大の全国的労働組合の中央組織・圧力団体であった[2]1980年代後半以降の労働戦線統一の流れにより、日本労働組合総連合会(連合)に発展的解消を遂げる形で1989年に解散した。

来歴

総評の第7回定期大会(1956年8月)

第二次世界大戦の日本敗戦後、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の保護と育成の下に再出発した日本の労働運動経済・社会情勢を背景に急進的かつ政治的色彩の濃いもので、日本共産党も大きな影響力を及ぼしていた。しかし冷戦の勃発によりGHQが反共姿勢(いわゆる「逆コース」)を強めたことに伴い、1947年(昭和22年)の二・一ゼネスト中止、東宝争議への米軍出動など、日本共産党の影響力が強い産別会議全労連などに集約されていた労働運動は行き詰まりをみせた。1948年(昭和23年)にはGHQの意向により政令201号が公布され、公務員争議権が剥奪された。さらに1950年(昭和25年)にはレッドパージにより共産党員とシンパが大量解雇されるに至った。

そのため労働組合主義や日本共産党の排除、国際自由労連世界労連から分裂して結成)加盟などを指向する運動潮流の分岐と結集が進んだ。

1950年(昭和25年)7月11日、日本労働組合総評議会(総評)の結成大会が東京都港区の東交会館で行われた[3]。初代議長には炭労出身の武藤武雄、事務局長には都市交出身の島上善五郎が選出され、総同盟国労日教組都労連海員組合私鉄総連など主要なナショナルセンターと単産(産業別単一労働組合の略[4])が参加した。総評結成にはGHQの強い意向が働いており、結成大会で日本共産党排除や国際自由労連への接近を内容とする大会宣言を採択し、産別会議・全労連とは一線を画する労働組合として出発した。

こうしてGHQの援助の下に、反共的色彩の強いナショナルセンターとして出発した総評であったが、翌1951年3月10日の第二回大会で、講和をめぐって民同左右が対立し、行動綱領として再軍備反対・全面講和・中立堅持・軍事基地反対の平和四原則を決定し、国際自由労連に加盟する議案を否決するなどして、右派が後退し、早くも左傾反米へと方向転換した。事務局長に高野実を選出した。吉田内閣が国家公安保障法(後に破防法として成立)、集会デモ取締法、ゼネスト禁止法、労働三法改正の成立を図ったことに対し、同1951年6月に「労働法規改悪反対闘争委員会」(労闘)を設置し、国会審議中の1952年には政治ゼネストを4波にわたって行った(労闘スト)。日本炭鉱労働組合連合会(炭労)と電力会社の単産である日本電気産業労働組合(電産)を筆頭に、加盟単産も戦闘的な労働争議を展開した。総評のこの変化を当時のマスコミは「ニワトリからアヒルへ」と呼んだ。一説に、これは総評の変化を当時のGHQ労働組合担当者が「チキン(臆病者)が役立たず(lame duck、レームダック)になった」と罵ったのを、通訳が理解できず「アヒルになった」と直訳したからという。

1952年7月の第3回大会では、右派の国際自由労連一括加盟案が否決され、左派社会党への支持を決定して左派路線を明確にした。人事においても電産委員長の藤田進が新たに選ばれるとともに高野実が事務局長に再選され、民主化同盟(民同。二・一ゼネスト中止後に労組内から日本共産党の勢力を排除する[5])左派の主導権が確立した。一方で右派は役員を出さず、総評内の左右の対立は深まっていった。

1952年12月25日、全繊同盟海員組合全映演日放労の4単産は、総評指導部の政治闘争を重視した指導を批判する「総評批判――民主的労働組合の立場に立って」と題する声明を発表し、右派系組合と執行部の確執が表面化した(4単産批判)。両者の対立は解消されることなく、7月8日の第4回大会を経た1953年7月から11月にかけて日放労を除く右派系の3単産は相次いで総評から脱退し、右派ナショナルセンターである総同盟を1951年6月に再建、1954年4月22日には新たな連絡協議体として全日本労働組合会議(全労)を結成した。

一方で総評は3単産の脱退を機に階級闘争を基本的理念とし、資本主義体制の変革を目標に据え、第2回大会以来の路線転換を完成させた。日本社会党支持を運動方針に明記し、反戦平和の運動を進めた。総評の持つ政治的影響力は絶大で、しばしば横紙破りな行動が物議をかもしたところから「昔陸軍、今総評」などと揶揄された。この総評の左派路線形成には社会主義協会の影響があった。関係者の回想では、1950年代後半から1960年代にかけて、総評本部の専従者はほとんどが社会主義協会会員であったという。

1958年2月15日、産別会議は2つの単産が加盟していたのみだったが、その1つの主力単産である全日本金属労働組合(全金属)が総評の全国金属労働組合(全国金属)と統合して総評へ合流し、同時に産別会議も解散した。

1961年5月18日、週刊誌『新週刊』を創刊、1962年7月5日、廃刊、負債4億700万円、1962年7月24日、週刊新社(石川達三)から再刊、10月16日、休刊。

1978年(昭和53年)には、OECD労働組合諮問委員会へ参加した。

1983年(昭和58年)には49単産451万人、全組織労働者の36%が総評傘下にあり、その約7割は官公労働者であった。毎年中立労連とともに春闘共闘会議を組織し、春闘を賃金決定機構として定着させた。

1987年に発足した全日本民間労働組合連合会(全民労連。後の日本労働組合総連合会(連合))に合流するため、1989年11月に解散した。

総評の政治活動を継承する組織としては、1989年9月に総評センターが作られ、さらに1992年10月には社会党と連帯する労組会議に移行。そのようにして、連合とは別の形態で日本社会党(のちに社民党)を支持していたが、民主党の結成後は軸足を民主党に移す動きが強まり、1997年7月に民主・リベラル労組会議に移行。1999年5月には、連合政治センターの結成に伴い、民主・リベラル労組会議も解散し、独自の政治活動に一応の終止符を打った。

2017年10月には立憲民主党が結成され、旧総評系労組の組織内議員の大半が参加した。

政治活動

日本社会党支持を運動方針に明記し、日本共産党とは個別の課題で共闘するとしていた。1964年4.17ゼネスト問題で、日本共産党がストライキに反対する方針をとった結果、一部の組合では組合内の日本共産党員に対して攻撃をかけることもあった[6]

加盟組合

解散を決定した臨時大会(1989年11月)が開かれる直前である、1989年7月の加盟単産を以下に示す[7]。結成当初は民間の基幹産業の単産も多く加盟していたが、民間労組の多くが同盟に加盟するようになると、官公庁労組が中心となった。

脱退した加盟単産

  • 全国繊維産業労働組合同盟(全繊同盟、のちゼンセン同盟)- 総評を批判して1953年(昭和28年)に脱退し全日本労働組合会議(全労会議)を結成、1964年(昭和39年)に全労会議を解散して全日本労働総同盟(同盟)を結成した。同盟は労使協調路線と反共主義を掲げ民社党を支持し、日本社会党を支持する総評と激しく対立した。このため1960年代から1980年代前半までの労働運動が盛んだった時代には、同じ職場内で総評系と同盟系の労組が対立・衝突するという、労使対立ならぬ「労労対立」が生じる事態も起きた。1987年(昭和62年)の日本労働組合総連合会(連合)結成後は旧同盟系が主流派となり、これに反発した社会党左派の一部が全国労働組合連絡協議会(全労協)を結成することとなった。
  • 全日本海員組合(海員組合、または全日海)- 全繊同盟とともに全日本労働組合会議(全労会議)を結成し加盟。
  • 全国映画演劇労働組合(全映演) 全繊同盟とともに全日本労働組合会議(全労会議)を結成し加盟。
  • 国鉄動力車労働組合(動労) - 国鉄分割民営化を目前に控えた、1985年(昭和60年)7月15日から18日にかけて開催された総評第75回定期大会後に脱退[10]。同大会では動労の国鉄分割民営化への対応が集中的に批判され、動労は大会中に退席した。同年9月7日に総評幹事会は動労の総評脱退届を受理した。
  • 鉄道弘済会労働組合(鉄弘労・TKU) - 1987年6月末に財政負担を軽減するためとして脱退[11]
  • 全国紙パルプ産業労働組合連合会(紙パ労連) - 1988年2月、紙パ総連合と統合し紙パ連合を結成して脱退。

歴代議長

  • 武藤武雄(1950年7月~1952年7月、炭労出身)
  • 藤田進(1952年7月~1953年7月、電産出身)
  • 藤田藤太郎(1953年7月~1956年8月、私鉄総連出身)
  • 原口幸隆(1956年8月~1958年7月、全鉱出身)
  • 太田薫(1958年7月~1966年8月、合化労連出身)
  • 堀井利勝(1966年8月~1970年8月、私鉄総連出身)
  • 市川誠(1970年8月~1976年7月、全駐労出身)
  • 槙枝元文(1976年7月~1983年7月、日教組出身)
  • 黒川武(1983年7月~1989年11月、私鉄総連出身)

歴代事務局長

  • 島上善五郎(1950年~1951年、都市交出身)
  • 高野実(1951年~1955年、全国金属産業労働組合同盟(全国金属)出身)
  • 岩井章(1955年~1970年、国労出身)
  • 大木正吾(1970年~1976年、全電通出身)
  • 富塚三夫(1976年~1983年、国労出身)
  • 真柄栄吉(1983年~1989年、自治労出身)

関連項目

外部リンク

脚注

  1. ^ 1989年11月解散大会時点。以下同じ。
  2. ^ a b c 三訂版,世界大百科事典内言及, デジタル大辞泉,精選版 日本国語大辞典,世界大百科事典 第2版,百科事典マイペディア,ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典,日本大百科全書(ニッポニカ),旺文社日本史事典. “総評とは”. コトバンク. 2021年10月20日閲覧。 “さらに進んで圧力団体がその幹部を議員候補者として政党に提供することも,まれではない。この点で際だっているのが日本の総評で,社会党の衆参両院議員の過半数は,現在総評出身者によって占められている。圧力団体活動の第2の側面は,議会に対する〈圧力活動〉である”
  3. ^ 『戦後20年写真集』共同通信社、1965年8月1日。
  4. ^ 単産(タンサン)とは”. コトバンク. 2020年4月25日閲覧。
  5. ^ 民同(ミンドウ)とは”. コトバンク. 2020年4月25日閲覧。
  6. ^ この問題に取材した小説として、佐藤貴美子『桜子』(新日本出版社)がある
  7. ^ 法政大学大原社会問題研究所 『日本労働年鑑 第60集/1990年版』 労働旬報社、1990年7月5日、p.221
  8. ^ https://www.jmd.co.jp/article.php?no=97109
  9. ^ https://www.jmd.co.jp/article.php?no=97312
  10. ^ 法政大学大原社会問題研究所 『日本労働年鑑 第57集/1987年版』 労働旬報社、1987年6月25日、p.243
  11. ^ 法政大学大原社会問題研究所 『日本労働年鑑 第58集/1988年版』 労働旬報社、1988年6月25日、p.231

「日本労働組合総評議会」の例文・使い方・用例・文例

Weblio日本語例文用例辞書はプログラムで機械的に例文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「日本労働組合総評議会」の関連用語

日本労働組合総評議会のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



日本労働組合総評議会のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
デジタル大辞泉デジタル大辞泉
(C)Shogakukan Inc.
株式会社 小学館
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの日本労働組合総評議会 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。
Tanaka Corpusのコンテンツは、特に明示されている場合を除いて、次のライセンスに従います:
 Creative Commons Attribution (CC-BY) 2.0 France.
この対訳データはCreative Commons Attribution 3.0 Unportedでライセンスされています。
浜島書店 Catch a Wave
Copyright © 1995-2024 Hamajima Shoten, Publishers. All rights reserved.
株式会社ベネッセコーポレーション株式会社ベネッセコーポレーション
Copyright © Benesse Holdings, Inc. All rights reserved.
研究社研究社
Copyright (c) 1995-2024 Kenkyusha Co., Ltd. All rights reserved.
日本語WordNet日本語WordNet
日本語ワードネット1.1版 (C) 情報通信研究機構, 2009-2010 License All rights reserved.
WordNet 3.0 Copyright 2006 by Princeton University. All rights reserved. License
日外アソシエーツ株式会社日外アソシエーツ株式会社
Copyright (C) 1994- Nichigai Associates, Inc., All rights reserved.
「斎藤和英大辞典」斎藤秀三郎著、日外アソシエーツ辞書編集部編
EDRDGEDRDG
This page uses the JMdict dictionary files. These files are the property of the Electronic Dictionary Research and Development Group, and are used in conformance with the Group's licence.

©2024 GRAS Group, Inc.RSS