左派社会党とは? わかりやすく解説

左派社会党

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/21 15:43 UTC 版)

向坂逸郎」の記事における「左派社会党」の解説

1951年山川均とともに社会主義協会創設し日本社会党左派理論的支柱となり、左社綱領作成携わったりした。1958年山川亡くなると、社会主義協会中心人物となった向坂総評太田薫岩井章とともに社会党再統一対す批判開始しマスコミ注目を浴びるようになった

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左派社会党

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/30 02:27 UTC 版)

社会党左派」の記事における「左派社会党」の解説

1951年昭和26年)、サンフランシスコ講和条約および(旧)日米安全保障条約賛否をめぐり、社会党分裂し、両条約反対派便宜的に「左派社会党」と呼ばれた略して“左社”)。左右両派ともに、「日本社会党」と名乗ったためである。また、国会では、控室番号区別した分裂当初右派は単に「日本社会党」、左派は「日本社会党第二十三控室」)。 左派社会党の委員長には鈴木茂三郎が、書記長には野溝勝就任した1954年昭和29年)に書記長和田博雄交代)。 日本労働組合総評議会総評)の支援受けたために、当時としては組織的な選挙展開し、「組織の左社」と呼ばれた非武装中立論主張して再軍備反対し、さらに逆コース反対して護憲主張し女性ホワイトカラー層を中心に支持集めた分裂直後の左派社会党は16議席であったが、1952年総選挙54議席増え1953年総選挙ではさらに72議席増えて右派社会党追い抜いた1955年総選挙では89議席となり、左派優位体制確立した1955年昭和30年10月13日左右社会党再統一した(社会党再統一)。左社委員長鈴木統一した社会党委員長となったが、再統一反対した和田統一した党7役から外された。 この時期主な政治家以下のとおり稲村順三 - 農民運動から政界入り森戸・稲村論争社会党を「階級政党」と位置づける運動方針案を提出し左派における理論的支柱一人となった。左派社会党結成時には向坂逸郎伊藤好道と共に左社綱領起草し組織部長に就任した再統一直前急死した和田博雄 - 官僚から社会党左派加わった異色政治家鈴木茂三郎対抗するため、時には教条主義的な言動おこなった再統一後はあまりポスト恵まれず実力発揮できないまま政界引退した帆足計 - 官僚財界人出身当初緑風会所属。後に「日本社会党刷新連盟結成

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