左派社会党
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1951年、山川均らとともに社会主義協会を創設し、日本社会党左派の理論的支柱となり、左社綱領の作成に携わったりした。1958年に山川が亡くなると、社会主義協会の中心人物となった向坂は総評の太田薫・岩井章らとともに社会党再統一に対する批判を開始し、マスコミの注目を浴びるようになった。
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左派社会党
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1951年(昭和26年)、サンフランシスコ講和条約および(旧)日米安全保障条約の賛否をめぐり、社会党は分裂し、両条約反対派は便宜的に「左派社会党」と呼ばれた(略して“左社”)。左右両派ともに、「日本社会党」と名乗ったためである。また、国会では、控室の番号で区別した(分裂当初は右派は単に「日本社会党」、左派は「日本社会党第二十三控室」)。 左派社会党の委員長には鈴木茂三郎が、書記長には野溝勝が就任した(1954年(昭和29年)に書記長は和田博雄に交代)。 日本労働組合総評議会(総評)の支援を受けたために、当時としては組織的な選挙を展開し、「組織の左社」と呼ばれた。非武装中立論を主張して再軍備に反対し、さらに逆コースに反対して護憲を主張し、女性やホワイトカラー層を中心に支持を集めた。 分裂直後の左派社会党は16議席であったが、1952年の総選挙で54議席に増え、1953年の総選挙ではさらに72議席に増えて右派社会党を追い抜いた。1955年の総選挙では89議席となり、左派優位体制を確立した。1955年(昭和30年)10月13日、左右社会党は再統一した(社会党再統一)。左社委員長の鈴木は統一した社会党の委員長となったが、再統一に反対した和田は統一した党7役から外された。 この時期の主な政治家は以下のとおり。 稲村順三 - 農民運動から政界入り。森戸・稲村論争で社会党を「階級政党」と位置づける運動方針案を提出し、左派における理論的支柱の一人となった。左派社会党結成時には向坂逸郎や伊藤好道と共に左社綱領を起草し、組織部長に就任したが再統一直前に急死した。 和田博雄 - 官僚から社会党左派に加わった異色の政治家。鈴木茂三郎に対抗するため、時には教条主義的な言動をおこなった。再統一後はあまりポストに恵まれず、実力を発揮できないまま政界を引退した。 帆足計 - 官僚・財界人出身。当初は緑風会所属。後に「日本社会党党刷新連盟」結成。
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