悟達への想いと求道
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 06:20 UTC 版)
関東大震災のあった1923年(大正12年)11月2日に父・仁一郎が細胞肉腫、後腹膜腫瘍で死去(64歳で没)。戸塚を離れ、池袋などを転々と引っ越し、1925年(大正14年)から兄と荏原郡大井町字元芝849(現・品川区東大井)に転居。本当は山に入って暮らすことを考えていたが、父の財産管理で10万円の借金があったことから、3月に豊山中学校を卒業後は代用教員になることを決心し、荏原郡世田ヶ谷町の荏原尋常高等小学校(現・若林小学校)に採用され、その分教場(現・代沢小学校)の代用教員となり、5年生を担当する。分教場主任の家に下宿し、月給は45円であった。生徒への教育方針は「温い心や郷愁の念を心棒に強く生きさせる」ことで。優しいが怖い先生だったという。 この頃、短歌を書く時の名前を「安吾」と称するようになる。「安吾」とは、心安らかに暮らすことを意味する「安居」のことである。のちに安吾は、〈僕は荒行で悟りを開いたから、安吾にした〉と鵜殿新に語っている。芥川龍之介、佐藤春夫、正宗白鳥、チェホフの『退屈な話』など、多くの文学書を愛読する。 卒業した豊山中学校が真言宗の中学で、在学中から友人らの影響で宗教に目覚めていた安吾は、ますます求道への想いが強くなり、1926年(大正15年)から仏教の本格研究を志すため代用教員を辞め、4月に東洋大学印度哲学倫理学科第二科(現・インド哲学科)に入学。住いは荏原郡大井町字元芝に戻ったり、四兄・上枝と婆やと共に北豊島郡西巣鴨町大字池袋(現・豊島区西池袋)に転居する。大学では読書会(原典研究会)を行なったりした。龍樹に影響を受け、「意識と時間との関係」「今後の寺院生活に対する私考」を原典研究会刊『涅槃』に発表する。この頃、交通事故に遭い、後遺症で頭痛や被害妄想が起こりがちになる。 睡眠時間をわずか4時間にし(午後10時に寝て午前2時に起床)、仏教書や哲学書を読み漁る猛勉強の生活を1年半続けた結果、神経衰弱に陥る。1927年(昭和2年)の芥川龍之介の自殺がさらに安吾の神経衰弱に拍車をかけ、創作意欲を起こしつつ書けない苦悩の中で、自殺欲や発狂の予感を感じ、錯乱症状が悪化して、兄も安吾の病状に気づくようになる。しかし、古今の哲学書や、サンスクリット語、パーリ語、チベット語など語学学習に熱中することで妄想を克服した。
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