大会招致の経緯とは? わかりやすく解説

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大会招致の経緯

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/09 06:33 UTC 版)

2002 FIFAワールドカップ」の記事における「大会招致の経緯」の解説

これまでFIFAワールドカップ(以下W杯と略すことあり)は欧州南北アメリカ間で交互に行われてきたが、1986年国際サッカー連盟FIFA)のジョアン・アヴェランジェ会長当時)が「初のアジア・アフリカ大陸による開催」案を打ち出したその後、同会長から大会開催打診受けた日本サッカー協会各国先駆けて招致名乗りをあげ、当時低迷する日本国内サッカー界の活性化念頭に置いた上で1988年FIFAワールドカップ日本開催構想1989年11月FIFAW杯開催国立候補意思表示をし、招致活動開始した1991年6月2002年W杯招致委員会発足翌年1992年3月24日にはW杯国会議員招致委員会(以下招致議連)が誕生しW杯招致日本国家的事業となった日本FIFAワールドカップを「より平和の祭典」としてメッセージ性あるイベントにしようと提案しトヨタカップなどの開催実績と「平和で安全」、「豊かな経済」、「政治的安定」、「自由と民主主義」、「世界先進国」である点などを示し日本開催する意義謳ったまた、バーチャルスタジアム構想」(使用していないスタジアム巨大なスクリーン配置し3次元映像投影あたかも実際に目の前で選手プレーしているように観客に観せる日本が誇る最新映像技術駆使した仮想スタジアム観戦システム)を提案し史上最大の計400万人スタジアム観戦することが可能な大会にすることを謳ったバーチャルスタジアム構想その後、メガビジョンという大画面投影技術へ姿を変えた。しかし、放映権問題があったため、実際にメガビジョンが使われたのは準決勝1試合だけであった)。 その一方でFIFA想定するアジア初のワールドカップ開催日本立候補する知った韓国は「アジア初」を賭けて日本に続く形で1993年11月立候補表明1994年初めに招致委員会組織した日本よりも招致活動出遅れ韓国は、同1994年FIFA副会長選出され鄭夢準大韓サッカー協会会長現代重工業大株主。元韓国国会議員)を先頭にして、現代財閥中心に韓国国内政財界をあげての招致活動乗り出し、「南北朝鮮共同開催案」を持ち出すなどして日本招致活動激しく対抗した。そして、1995年2月立候補する表明していたメキシコ辞退し日本と韓国の2国のみが正式に立候補表明した日韓以外に立候補した国はなく、招致活動日韓一騎討ちとなった1995年9月28日日本FIFAワールドカップ開催提案書FIFA提出した。これを受けて同年11月FIFA視察団(インスペクショングループ)が日韓両国訪問しスタジアム国内リーグインフラなどチェックした視察団は『日本施設も、歓迎も、技術素晴らしい』と日本高く評価した開催国決定当初1996年6月1日FIFA臨時理事会会長副会長を含む理事21人の投票によって決定される予定だった。しかし、時期同じくしてFIFA会長選挙控え一貫して日本単独開催推していたFIFAのアヴェランジェ会長会長派とUEFA会長レナート・ヨハンソン次期FIFA会長にしたい欧州FIFA理事派の勢力次期会長職を巡って対立し始める。そして、アヴェランジェ会長会長続投阻止しようと反会長派の欧州理事たちは日本と韓国共同開催日韓共催)を強く推進したが、南米会長派はあくまでも日本による単独開催支持した為にアフリカ理事らの動向投票左右することとなった。ただ、こうした状況の中で次第日韓共催案が現実味帯び始め事となる。 直前になって欧州理事らが、欧州各国サッカーリーグ選手受け入れてもらう立場にあるアフリカ理事の票を押え多数派FIFA理事21名中11名)となった。その為、開催国決定する投票日前日定例理事会前に行われたパーティー会場アフリカ理事らとの歓談から敗北悟ったアヴェランジェ会長は、会長として権威を保つ為、それまで自身強硬に反対していた日韓共催当時規則ではワールドカップ単独開催のみ)を自ら提案することを決断した1996年5月30日午後、アヴェランジェ会長FIFA事務局長ゼップ・ブラッター通して、ヴィダーホテルで投票を待つ日本招致委員会対し非公式に日韓共催打診電話をかけさせた。電話受けたのは語学堪能日本招致委員会実行委員長岡野俊一郎だった。なお、ブラッター口ぶり切羽詰まっており、打診というより要請だったという。岡野電話では不正確として、FIFAの公式文書を求めた午後3時過ぎ、ブラッター署名入りFIFA式文書がFAX届いた。その文書には、『既に韓国1996年5月15日付の文書日韓共催受け入れFIFA回答した日本の立場たずねたいと書かれていた。2時間ほどの協議でも結論は出なかったが、もしも日本共同開催受け入れ拒否した場合は「韓国単独開催」になるのは必至だった。ブラッターへの返答刻限が迫る中、招致議連会長宮澤喜一が「日韓共催政治にとって悪くない選択だ」と発言した。その発言きっかけ長沼健日本サッカー協会会長やむを得ず共同開催受け入れ決断したその後ブラッターから二度目電話入り長沼自身共催受け入れ伝えた翌日5月31日午前7時すぎ、岡野日本サッカー協会公式の共催受け入れ文書ブラッター手渡した。そのわずか2時間後の午前9時の定例理事会で、アヴェランジェFIFA会長日韓両国による共同開催案を提案満場一致拍手賛成決議定例理事会幕を閉じた結局投票待たずして日韓共催決定した同日午後4時過ぎ、FIFA開催国決定した日本と韓国による共同開催決定会見開かれた。独の当時サッカージャーナリスト(現バイエルン・ミュンヘン海外担当)マーティン・ヘーゲレらの警鐘趨勢悟れアベランジェ日本裏切る等)等の重要な情報無視し欧州アフリカ理事らの動向掴めず、日本単独開催支持していたアヴェランジェ会長最後まで盲信し続けた日本招致委員会実質的な敗北であったちなみに、もしも日本共同開催受け入れ拒否した場合は「韓国単独開催以外の案としては「開催国決定延長」、「中国での開催」などといった諸案があった。 結局日韓共催はアヴェランジェ会長南米派と反会長欧州派のFIFA内部政治的対立産物であったが、アヴェランジェ会長程なくしてFIFA会長職から引退する形で退いたまた、ワールドカップ組織委員会委員長には、FIFA副会長鄭夢準大韓サッカー協会会長就任した(この件に関してマーティン・ヘーゲレは「各国担当者高価な物を贈ったり、娼婦を抱かせようとした」「ヘーゲレへ圧力をかけるよう鄭本人フランツ・ベッケンバウアー(現ドイツサッカー連盟副会長)に依頼したものの、一蹴された」と主張している。 その後1997年後半韓国アジア通貨危機巻き込まれデフォルト寸前不況に陥り、国際通貨基金(IMF)の管理下に入った。IMF経由日本中心とした金融支援やIMFによる米国経済導入によって大量失業者を生みながら経済V字回復した為に最後まで日本単独開催には至らなかった。しかし、経済回復対米輸出頼った状態であった為に2001年アメリカ同時多発テロ事件韓国経済がまたも失速し試合会場となるスタジアム建設滞る事態となった。そこで、国際協力銀行旧日輸出入銀行)がスタジアム建設費として2億ドル融資計画したが、韓国政府断り中止になった結局韓国でのスタジアム建設続けられ日韓共催はようやく実現した。 なお、鄭夢準大韓サッカー協会会長は、韓国へワールドカップ誘致韓国代表を4位に導いた業績背景2002年大韓民国大統領選挙への立候補表明している(投票日前日盧武鉉との取引に応じて立候補取り止め)。

※この「大会招致の経緯」の解説は、「2002 FIFAワールドカップ」の解説の一部です。
「大会招致の経緯」を含む「2002 FIFAワールドカップ」の記事については、「2002 FIFAワールドカップ」の概要を参照ください。

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