城と築城とは? わかりやすく解説

城と築城

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 07:25 UTC 版)

戦国時代 (日本)」の記事における「城と築城」の解説

江戸時代姫路城見られるような、城郭全体主要構造として石垣が及び、礎石建物瓦葺屋根漆喰塗籠という織豊系城郭や後の近世城郭特徴織田信長岐阜城安土城などが築かれたころに登場したのである戦国時代築城あるいは使用された城の大部分は、基本的に土を盛った掘削したりして築く「土の城」であり、石垣部分的に用いられ程度であった戦国時代の城従来室町時代普及した詰の城として使われる山城」と生活区域の「居館」との関係性同じように、防御施設としての山城山城の麓の「根小屋」と呼ばれる居館二元構造考えられてきた。1945年以前日本の考古学調査戦国時代の城跡では安土城天主台と本丸部分行われたのみで、考古学対象となっていなかったが、1970年代田中角栄によって提唱され日本列島改造論によって国土開発積極的に行われる当たって中世城跡発掘調査対象となった。そのころ行われた小谷城発掘調査によって山上礎石建物出土したことから、山城住居施設存在したことがわかり、観音寺城置塩城などでも同様の構造判明した。なお、小谷城観音寺城山麓居館があったことがわかっている。また、小谷城跡山上からは37,000点の陶磁器出土があり、このうち食器灯明に使う素焼き小皿かわらけ」が36,000点以上を占めており、小谷城では山上生活施設があったことが推定されている。これらのことから、戦国時代後半には守護大名戦国大名などは山麓だけではなく山上にも生活施設設けて機能によって使い分けていたと中井均考えている。また、石垣については従来1576年築城安土城に始まるとされていたが、それ以前15世紀後半にも高さ4メートルほどの石垣積まれ城郭築かれていたことがわっている。 近年においては、各戦国大名それぞれ得意とし、特徴を持つ築城術個々扱った研究進んでいる。これは各戦国大名固有の戦術ドクトリンとも密接に関連しており、甲斐武田氏領内における城を中心として見られる迎撃射撃補完し合う拠点としての馬出や、関東後北条氏領内九州北部地域の城を中心として見られる敵の侵攻経路管制する竪堀、あるいは、火縄銃多く流通した畿内中心として見られる射撃拠点としての望楼多く伴う城など、地域ごとにさまざまな縄張りへの工夫見られる16世紀末期になるとこれまでの軍事的拠点としての山城から、商業経済中心平地沿岸部築城した平城城下町へと移っていった。

※この「城と築城」の解説は、「戦国時代 (日本)」の解説の一部です。
「城と築城」を含む「戦国時代 (日本)」の記事については、「戦国時代 (日本)」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「城と築城」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「城と築城」の関連用語

城と築城のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



城と築城のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの戦国時代 (日本) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS