日本の考古学とは? わかりやすく解説

日本の考古学

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/06 03:52 UTC 版)

考古学」の記事における「日本の考古学」の解説

好古家#日本」も参照 日本ではじめて先史時代遺物石器時代青銅器時代鉄器時代三時代区分法適用したのがフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトである。 日本では動物学者であったエドワード・モース1877年明治10年大森貝塚調査行ったのが、日本近代考古学あけぼのとされる。しかしモース教え子が本来の専攻である動物学進んだため、モース科学として開いた近代考古学順調に進まなかった。むしろ、モースより先であったという説もある。同時期に大森貝塚発掘調査したハインリヒ・フォン・シーボルトシーボルト次男外交官)の方が専門知識が豊富であり、モース学説は度々ハインリヒ研究により論破されている[要出典]。なお、日本においての考古学最初の定義もこのハインリヒ出版した考古説略」によってなされた考古学皇国史観歴史日本歴史はまった別個の存在であったために、考古学は「研究の自由」を保証され得たし、抑圧中に「自由」を享受した。 それに対してアジア各地出て行く日本人学者考古学研究はどうであったか。そこには、興亜院外務省朝鮮総督府当時満州国満鉄関東軍援助があった。これらの調査研究も、また、皇国史観抵触しない限り「自由」が保証された。中国学者一部との合作企画して結成され東亜考古学会も、学者あるべき姿として評価された。考古学者自身も、純粋な研究のため、いろいろな制限からの解放願い進んで大陸に出かけていった宮崎県西都原古墳群発掘県知事発案1912年大正元年)から東京帝国大学黒板勝美)と京都帝国大学喜田貞吉浜田耕作)の合同発掘が行われた。1917年大正6年京都大学考古学講座がおかれた。浜田耕作中心に基礎的な古墳研究始まった考古学における大正時代は、古墳研究基礎資料集積時代であった20世紀の間に、都市考古学考古科学、のちには「救出考古学」(レスキュー・アーケオロジー、日本でいう工事に伴う緊急発掘調査を指す)の発展が重要となった2000年に、日本考古学最大スキャンダルと言われ旧石器捏造事件発覚し学者らの分析技術未熟さ論争のなさ、学界閉鎖性などが露呈したまた、捏造工作をした発掘担当者のみに責を負わせ、約25年渡って捏造見逃した学識者責任不問となったことから、学界の無責任隠蔽体質指摘された。

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