唄を取り巻く状況
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『人生』をJASRACに登録する際には、作者不詳として申請するように言われたが、すでに他の人も唄っているのに無視することはできず、後藤は「作者がいるはずだ」と、高校時代のクラスメイトの橋本正樹とともに唄の「起源」を探ることにした。 赤い鳥が本作を唄うたびに「竹田」とはどこかと尋ねられても濁していたこともあり、後藤と橋本は1971年4月から唄の発祥を探し始めた。歌詞に「雪」があるため大分県竹田市ではなく、「よう泣く」の「よう」があるのは関西ではないかと考え、伏見か兵庫県氷上郡市島町の竹田かもしれないと見当をつけた。探し続けて2か月が経った後、ある女性から歌詞の「在所」は京都では未解放部落を指すと教えられ、橋本は「大きな楔を打ち込まれたように言動が止まった」と感じ、それから1970年出版の『京都の民謡』(音楽之友社)に本作が京都市伏見区竹田の唄だと明記されていることを知って確信した。 橋本が探し当てた事実を知らされた後藤は、今まで知らなかった「久世の大根めし 吉祥(きっちょ)の菜めし またも竹田のもんば飯」の歌詞を入れて唄うことを決意し、最初に歌唱したのは1971年9月の毎日放送の深夜番組だった。1971年12月発売のアルバム『スタジオ・ライブ』で「久世の大根めし…」の歌詞を入れた本作を赤い鳥としては初めて収録した。 1971年2月5日にシングル・カット、A面に本作、B面に『翼をください』を収録し、3年間でミリオンセラーとなったが、歌詞の「在所」が被差別部落を意味し、それ絡みの楽曲と知った放送局は慌てて自主規制をかけた。人気だった赤い鳥に対し、放送局から理由を告げずに「歌唱曲から外してほしい」と複数回の要請がなされた。またレコード会社も動揺し、採譜者が編曲著作権を主張したこともあってレコーディングが避けられるようになり、長い間いわゆる「放送禁止歌」として聴く機会が減少した。 背景には1970年の映画『橋のない川』第二部上映をめぐる騒動や、1974年の八鹿高校事件などもあり、1975年5月開催の「用語と差別を考えるシンポジウム」では、マスコミだけでなくドラマや落語などで「これでは物が言えなくなる」と指摘されるようになった。同年11月には部落地名総鑑事件が発生し、被差別部落の地名がどのような理由で使われようとも、部落解放同盟朝田派が差別だと言えばそう断定される状況が生まれたとして、本作にも部落の地名や「在所」の語があることから放送禁止になったことは否定できず、こうした出来事が同和タブーを形成した社会構造を浮かび上がらせるものであろうと、全国地域人権運動総連合竹田深草支部執行委員は批判している。 要注意歌謡曲指定制度には指定されてはいなかったとされ、2002年に大阪で開催された人権集会ではNHKの人権問題に熱心なベテラン局員は、過去に同局で放送禁止に指定されたことはなく、後藤もNHKからそういった扱いは受けなかったとしている。森達也が入手した1986年のフジテレビ番組考査部の議事録とみられる文書には「部落解放同盟の見解として『唄が作られ唄われた理由や背景をよく理解してくれるなら放送可能』とされたが、実際に理解することは不可能なので現実的には放送できない」旨が書かれており、放送禁止歌であるとの認識を既成事実としたメディアもあった。森は「唄の意味を理解することはそう難しくないはずだが、あっさりと不可能と結論付け、理解することとは何なのかすら思考していないことが文からは汲み取れ、『理解する』の主語を視聴者に置き換えても結論としてはあまりにも早計だ」と批判した。 また森は、かつて教科書に本作を掲載していた複数の出版社に取材したところ、各社とも対応は慎重で匿名を条件に取材に応じ「部落問題も理由の一つだが、他にも掲載されなくなった作品は多数あるため、断定するのは差別をまた生み出してしまう」「とにかく非常にナイーブな問題だ」と捉えていることが共通しており、旋律のみを掲載している一社からは、歌詞がない理由を何度尋ねても「旋律だけでも十分に素晴らしい曲だと判断した」と要領を得ない答えしか返ってこなかったという。 「部落解放同盟から抗議があったため放送しなくなった」とも噂されたがそのような事実はなく、部落解放同盟京都府連や竹田地区の解放同盟の者は、長らく放送禁止になったことすら知らず、中には竹田地区の唄であることさえ知らない者もいた。だが、元の旋律と歌詞とは大きく違う唄として広まったことに竹田地区の住民はかなり困惑し、赤い鳥のメンバーもヒットしてから被差別部落の唄という事実を知ったことで動揺した。 元唄には「もんば飯」という歌詞があり、もんばはおから、飯は精米の際に出る破片をかき集めた小米で、それを部落内で食べていることを意味する歌詞であり、尾上の前で唄った女性は鹿の子絞り仲間から「寝た子を起こすようなことをして」と責められ、女性は「竹田の恥をさらした」と後悔していた。 1972年1月に京都勤労会館で開催したフォークコンサートに赤い鳥が出演した際、橋本は先述の『京都の民謡』を編纂した日本音楽研究会メンバーでもあった尾上と知り合い、彼に唄を教えた女性を息子経由で連れてきてもらった。しかし彼女からは「久世の大根めし…」の箇所は唄わないでほしいと懇願され、周りで「あの唄は誰が教えたのか」と言う人がいることや、「昔もいつもそういう食事をしていたわけではない。どうして今になって部落の食生活を唄う必要があるのか。歌詞で竹田だけでなく他の部落の場所もわかってしまう」と、唄ったことを後悔していると告げ、自分の生まれを晒すことをはばかる世代の人間であった。後藤は唄を伝承している女性の名前でJASRACに登録したかったが、それも断られた。 女性の言葉により腰が引けた他の赤い鳥メンバーから後藤は非難され、女性を苦しめるわけにはいかず、彼女の息子たちと話し合った結果「勇気をもって唄っていってほしい。自分も応援する」と言われたため今後も唄い続けることにしたものの、「若さゆえに突っ張って生きていたことで人を苦しめてしまった」と後藤は半分後悔した。尾上も問題とされた箇所の歌詞の削除を求められたことがあり、また元唄と旋律が違うとしてJASRACに本作の補作者として登録してもらおうと申請したが却下された。当時のJASRACは民謡を十把一絡げにしており、著作者として登録する考えがまだなかった。 しかし一方で、1971年の赤い鳥の京都公演で本作の歌唱を聴いたその伝承者の女性は「ええかったがナァ」と感想を述べている。 1974年に赤い鳥は解散するが、本作だけが理由でないにしろ、若いメンバーたちに「歌うとは何か」という大きな問題を突きつけた。その後、放送局やレコード会社による自主規制は1990年代に緩和され、多くの歌手によってカバーされている。 伏見区で定期的に開催されている「ふしみ人権の集い」で、2001年に竹田地区の住民が本作を初めて歌唱し、以降も集いでは唄われている。これが報道されることに対し、「現代ではほぼ解決状態の部落問題を、今も残る深刻な差別としてマスメディアで宣伝し、唄を政治的に利用している」という批判も上がっている。
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