北見道路
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北見道路(きたみどうろ)は、北海道北見市にある国道39号のバイパス道路。北海道横断自動車道に並行する一般国道自動車専用道路(A'路線)として整備されている。
- ^ 高速道路ナンバリング路線図(国土交通省)
- ^ a b c d e f g h i j “一般国道39号 北見道路 再評価原案準備書説明資料 平成22年度” (PDF). 北海道開発局. 2017年5月8日閲覧。
- ^ 『一般国道39号 北見道路 再評価原案準備書説明資料 平成18年度』(pdf)(プレスリリース)国土交通省 北海道開発局 。2019年5月2日閲覧。
- ^ “一般国道39号 北見道路 北見西IC~北見東ICが開通します<通行無料> ~平成25年3月31日(日) 午後3時開通~” (PDF). 網走開発建設部. 2014年10月20日閲覧。
- ^ “新たなインターチェンジが開通します ~国道39号北見道路に「北見北上IC」及び「北見川東IC」を追加~” (PDF). 網走開発建設部 (2013年12月9日). 2014年10月20日閲覧。
- ^ 『追加インターチェンジ(無料区間)一覧』(PDF)(プレスリリース)国土交通省道路局、2013年6月11日 。2014年10月25日閲覧。
- ^ “十勝オホーツク自動車道 足寄〜北見間「訓子府IC〜北見西IC」<通行無料>が開通します 〜オホーツクの観光振興・安心安全・地域産業に貢献します〜” (PDF). 国土交通省北海道開発局 網走開発建設部 (2015年10月13日). 2015年10月16日閲覧。
- ^ “令和2年度全国道路・街路交通情勢調査の延期について” (PDF). 国土交通省 (2020年10月14日). 2021年11月13日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年12月15日閲覧。
- 1 北見道路とは
- 2 北見道路の概要
- 3 インターチェンジ
- 4 関連項目
北見道路
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上川道路開通後に開削された旭川から網走に至る全長217キロメートル(全長225キロメートルとも)に達した道路で、現在では、北見峠 - 生田原が国道333号、生田原 - 佐呂間間は共立峠、佐呂間 - 留辺蘂間が道道103号、留辺蘂 - 北見 - 緋牛内間が国道39号、緋牛内 - 網走間が道道104号にそれぞれ相当する。 屯田兵制度草創期でもある1888年(明治21年)に第2代北海道長官時代となった薩摩出身である永山武四郎は、急務であったロシア南下政策に対抗するための北見道路(中央道路)の開削工事を行うこととした。上川道路に引き続き樺戸集治監と空知集治監が担当したほか、1890年(明治23年)に釧路集治監(標茶)から網走へ約1200人の囚人の大移動が行われ、その収容所である釧路監獄所 網走囚徒外役所(のちの網走監獄)が作られてからは、労働力として囚徒たちを服役させるために約1400人が現場へ送り込まれた。上川道路にも増した難工事で、道央とオホーツク海沿岸を結ぶ道路開削工事は、険しい自然の地理的条件と野生動物のヒグマとの戦いであったといわれており、囚人労働史上で最も悲惨な事例とされている。1891年(明治24年)4月の雪融けを待って5月から原始林に駆り出され、斧を振りかざし大木を切り倒し、土砂や切り株をモッコに入れ担ぎ、夜にはカガリ火を焚き、松明をかざしながらの重労働が行われ、連日昼夜兼業で強行された結果、わずか8か月後の同年12月末には、北見峠・白滝 - 網走間の163キロメートル区間を完成させた。 道路建設では、囚徒200人(220人とも)を一団として4組に分け、3里から4里(約12–16キロメートル)を1区画として受け持ち、15間幅(約30メートル)に立ち木を切り倒して、3間幅(約6メートル)の道路を建設する工事が進められたが、割り当てが早く終わった組には次の工区の選択権が与えられていたため、空知集治監と網走監獄の各組の看守間で熾烈な競争が起こった。囚徒たちへの過酷な強制労働は、山岳部の奥地に建設現場が進むにつれて食糧運搬がうまくいかなくなったことにより、栄養失調や怪我で211人とも言われる多くの死亡者を出す事態となり、多大な犠牲を払った。囚人たちの傷だらけの身体にヤブカややヌカカの大群が襲来したほか、寒さや過労、食糧不足からくる栄養失調から水腫病とよばれる全身が膨れ上がる病が大量発生し、北見では半年間で、出役した1150人のうち900人以上が発病して180人から230人以上が死亡した。 当時、囚人たちの人権は無視されていたといってもよく、「囚徒らがたとえ死んだとしても監獄費の経費節減になる」という思想がまかり通っていた時代であった。囚徒たちの労働生活は、全員が1本の丸太を枕として眠り、夜明け前の午前3時半の起床では看守が大声で叫ぶほか、丸太枕を叩いて起こし、逃亡防止のために2人の足を鎖でつないで使役させられていた。看守たちは携帯したピストルとサーベルや長棒で囚徒たちの後ろから威嚇し、強制労働の苦痛に耐えきれず逃亡を謀った者は「拒捕惨殺(きょほざんさつ)」といって、見せしめのために看守にその場で切り殺されるか、逃亡できたとしても、食糧を見つけることが困難な山中では食いつなぐことも出来ず、結局は作業場へ戻るしかなかったと伝えられる。病死や惨殺されていった囚徒たちの屍は、そのまま現場近くへ捨てられて風雨にさらされたといい、やがて当時の仲間の囚人たちによって土を盛るようにかぶせられて埋葬された。のちにそうした「土まんじゅう」は入植者らによって見つけられ、掘り起こされると土に還りつつある人骨と、墓標の目印として置かれた鎖がそのまま出てきたことから鎖塚とよばれるようになり、鎖でつながれたままの2人の白骨も発見されている。北見市のJR緋牛内駅の周辺でも3基の鎖塚が残されている。
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