初期の抵抗運動とは? わかりやすく解説

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初期の抵抗運動

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/29 15:11 UTC 版)

ユーゴスラビア人民解放戦争」の記事における「初期の抵抗運動」の解説

1931年から1939年までの間、ソビエト連邦ユーゴスラビアパルティザン戦争の準備進めていた。戦争前夜には、数多く将来ユーゴスラビア共産主義指導者たちがソビエト連邦諜報機関によって、ソビエト国内およびスペインパルティザンとしての軍事訓練修了した1941年6月22日始まったバルバロッサ作戦で、枢軸国ソビエト連邦との戦端切った。同じ日に、ユーゴスラビア・パルティザンはシサク人民解放パルティザン部隊英語版)を発足させ、これがユーゴスラビア・パルティザンの初の軍事組織誕生となった。この部隊はクロアチア・シサク近くブレゾヴィツァ(Brezovica)の発足したその後週間の間に、ユーゴスラビア各地枢軸支配からの解放求め多数軍事組織活動始めたユーゴスラビア共産党1941年7月4日武力闘争開始決定し、この日付は後に「戦士の日」としてユーゴスラビア社会主義連邦共和国祝日とされた。ジキツァ・ヨヴァノヴィッチ・シュパナツ(英語版)が最初一発銃弾放って武装抵抗始まった。この日付は後のセルビア社会主義共和国における国民の祝日・「蜂起の日」となった8月10日山中スタヌロヴィッチ(Stanulović)にて、パルティザン軍はコパオニク・パルティザン分隊総司令部設置したパルティザンによって解放された、スタヌロヴィッチと周辺から成る領域は、「鉱夫共和国」と呼ばれ42日間維持された。この地域反乱軍は後にパルティザン本隊合流した1941年9月パルティザンザグレブ中央郵便局破壊工作英語版)を実行した1941年12月22日、ユーゴスラヴィア・パルティザンは第1プロレタリアート急襲旅団1. Proleterska Udarna Brigada, 1st Proletarian Assault Brigade)を組織した。この旅団は、拠点となる地域超えて活動する能力を持つ、パルティザン初の常設軍事組織である。この日付は後に「ユーゴスラビア人民軍英語版)の日」となる。1942年パルティザン各組織は公式に、ユーゴスラビア人解放軍およびパルチザン部隊NOV i POJ)へと統合された。 チェトニク降伏したユーゴスラビア王国軍の残党中心として、ドラジャ・ミハイロヴィッチ指導のもとセルビア西部のラヴナ・ゴーラ(英語版山中結成された。しかし、パルティザンとは異なりミハイロヴィッチの軍はほぼすべてがセルビア人構成されていた。ミハイロヴィッチ部隊武装させ、自らの命令を待つよう指示したミハイロヴィッチ戦略的重要性が低いとして枢軸軍への直接攻撃避け方針を採った。 チェトニク初期のころから1943年テヘラン会談までの間、西側連合国支援受けていた。1942年雑誌タイムミハイロヴィッチ率いチェトニクの「成功」を特集しナチス支配下ヨーロッパで自由のために戦う者として喧伝した。チェトニク連合国から空輸にて銃器500丁の補給受けた英語版)。しかし、実際にはより積極的に枢軸勢力戦っていたのはティトーパルティザンであったティトーおよびミハイロヴィッチドイツから10万ライヒスマルク懸賞金かけられており、チェトニクが「公式には」ドイツウスタシャ仇敵であった間、実際にイタリアその他の枢軸勢力密通していた。

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初期の抵抗運動

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/18 23:22 UTC 版)

エストニアの独立回復」の記事における「初期の抵抗運動」の解説

ソ連による占領に対しては、その直後からエストニアでも、兄弟英語版)」と呼ばれる1万人の反体制ゲリラ1953年まで武装抵抗続けたその最後生き残りであるアウグスト・サッベ(英語版)は、1978年KGBエストニア語版)に追い詰められ自殺した一方で1970年代初頭には新たな地下出版物現れエストニア独立民族自決求め住民投票要求した1972年10月には占領ロシア化抗議しエストニアの独立回復国際連合加盟求め覚え書きが、国連事務総長クルト・ヴァルトハイム宛てて送られている。1974年末にはセルゲイ・ソルダトフ(ロシア語版)ら5人の活動家摘発され大打撃を受けるも、エストニア民族主義英語版組織はなおも地下出版続けた1977年には18人の自然科学者が、エストニア行われている杜撰なオイルシェール燐灰石採掘による環境汚染告発する声明発している(こうした鉱業必然的にロシア人労働者大量流入伴うため、エストニア人にとって環境問題民族問題同義であった)。1975年からはバルト三国間での反体制派連携始まり1979年8月23日独ソ不可侵条約締結40周年には、条約秘密議定書公表求める「バルト・アピール(エストニア語版)」が、バルト三国45人の反体制派によって公表された。 しかし、エストニア最初に大規模な抗議運動表面化したのは、1980年9月22日タリン開催されたロック・コンサートにおいてであった当局によってこのコンサート中止されたことに対する不満から、1週間後には数千人に及ぶ学生デモ行進繰り広げ、さらにこのデモ行進に対して機動隊投入され多数負傷者発生した。これを憂慮するエストニア人知識人たちは『プラウダ』など各紙公開状40の手紙(英語版)」を掲載した。彼らは「経済ロシア語版)的に必要であるとして合理化されていた」ロシア化ロシア人流入について、「エストニア地元住民が、自分たちの土地民族運命に関する最終決定権を常に持つという保障」を求めた。 続く1981年には反体制派リーダーのマルト・ニクルス(エストニア語版)とユリ・クック(エストニア語版)が検挙されクック獄中変死遂げた1982年3月には15人の知識人署名した手紙フィンランド新聞掲載され、そこではエストニア人が自らの故郷ありながら「私は誰なのか、ここは本当に私の故郷の町なのか、私の国なのか」と絶え自身問いかけなければならないような有様伝えられた。1983年にもソ連各地民族主義活動検挙の波が起こりエストニアからもエン・タルト (et)、ヘイキ・アホネン (et)、ラグレ・パレク(エストニア語版)などの逮捕者出ている。

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