初期の抵抗運動
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「ユーゴスラビア人民解放戦争」の記事における「初期の抵抗運動」の解説
1931年から1939年までの間、ソビエト連邦はユーゴスラビアのパルティザン戦争の準備を進めていた。戦争前夜には、数多くの将来のユーゴスラビアの共産主義指導者たちがソビエト連邦の諜報機関によって、ソビエト国内およびスペインでパルティザンとしての軍事訓練を修了した。1941年6月22日に始まったバルバロッサ作戦で、枢軸国はソビエト連邦との戦端を切った。同じ日に、ユーゴスラビア・パルティザンはシサク人民解放パルティザン部隊(英語版)を発足させ、これがユーゴスラビア・パルティザンの初の軍事組織の誕生となった。この部隊はクロアチア・シサク近くのブレゾヴィツァ(Brezovica)の森で発足した。その後数週間の間に、ユーゴスラビア各地で枢軸支配からの解放を求める多数の軍事組織が活動を始めた。 ユーゴスラビア共産党は1941年7月4日に武力闘争の開始を決定し、この日付は後に「戦士の日」としてユーゴスラビア社会主義連邦共和国の祝日とされた。ジキツァ・ヨヴァノヴィッチ・シュパナツ(英語版)が最初の一発の銃弾を放って、武装抵抗は始まった。この日付は後のセルビア社会主義共和国における国民の祝日・「蜂起の日」となった。 8月10日、山中の村スタヌロヴィッチ(Stanulović)にて、パルティザン軍はコパオニク・パルティザン分隊総司令部を設置した。パルティザンによって解放された、スタヌロヴィッチと周辺の村々から成る領域は、「鉱夫共和国」と呼ばれ、42日間維持された。この地域の反乱軍は後にパルティザンの本隊に合流した。 1941年9月、パルティザンはザグレブ中央郵便局破壊工作(英語版)を実行した。 1941年12月22日、ユーゴスラヴィア・パルティザンは第1プロレタリアート急襲旅団(1. Proleterska Udarna Brigada, 1st Proletarian Assault Brigade)を組織した。この旅団は、拠点となる地域を超えて活動する能力を持つ、パルティザン初の常設の軍事組織である。この日付は後に「ユーゴスラビア人民軍(英語版)の日」となる。1942年、パルティザンの各組織は公式に、ユーゴスラビア人民解放軍およびパルチザン部隊(NOV i POJ)へと統合された。 チェトニクは降伏したユーゴスラビア王国軍の残党を中心として、ドラジャ・ミハイロヴィッチの指導のもとセルビア西部のラヴナ・ゴーラ(英語版)山中で結成された。しかし、パルティザンとは異なり、ミハイロヴィッチの軍はほぼすべてがセルビア人で構成されていた。ミハイロヴィッチは部隊を武装させ、自らの命令を待つよう指示した。ミハイロヴィッチは戦略的重要性が低いとして枢軸軍への直接攻撃を避ける方針を採った。 チェトニクは初期のころから1943年のテヘラン会談までの間、西側連合国の支援を受けていた。1942年、雑誌・タイムはミハイロヴィッチ率いるチェトニクの「成功」を特集し、ナチス支配下のヨーロッパで自由のために戦う者として喧伝した。チェトニクは連合国から空輸にて銃器500丁の補給を受けた(英語版)。しかし、実際にはより積極的に枢軸勢力と戦っていたのはティトーのパルティザンであった。ティトーおよびミハイロヴィッチはドイツから10万ライヒスマルクの懸賞金をかけられており、チェトニクが「公式には」ドイツやウスタシャの仇敵であった間、実際にはイタリアやその他の枢軸勢力と密通していた。
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初期の抵抗運動
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「エストニアの独立回復」の記事における「初期の抵抗運動」の解説
ソ連による占領に対しては、その直後からエストニアでも、「森の兄弟(英語版)」と呼ばれる約1万人の反体制ゲリラが1953年まで武装抵抗を続けた。その最後の生き残りであるアウグスト・サッベ(英語版)は、1978年にKGB(エストニア語版)に追い詰められて自殺した。 一方で、1970年代初頭には新たな地下出版物が現れ、エストニアの独立と民族自決を求める住民投票を要求した。1972年10月には占領とロシア化に抗議し、エストニアの独立回復と国際連合加盟を求める覚え書きが、国連事務総長クルト・ヴァルトハイムへ宛てて送られている。1974年末にはセルゲイ・ソルダトフ(ロシア語版)ら5人の活動家が摘発される大打撃を受けるも、エストニア民族主義(英語版)組織はなおも地下出版を続けた。 1977年には18人の自然科学者が、エストニアで行われている杜撰なオイルシェール・燐灰石採掘による環境汚染を告発する声明を発している(こうした鉱業は必然的にロシア人労働者の大量流入を伴うため、エストニア人にとって環境問題と民族問題は同義であった)。1975年からはバルト三国間での反体制派の連携も始まり、1979年8月23日の独ソ不可侵条約締結40周年には、条約秘密議定書の公表を求める「バルト・アピール(エストニア語版)」が、バルト三国の45人の反体制派によって公表された。 しかし、エストニアで最初に大規模な抗議運動が表面化したのは、1980年9月22日、タリンで開催されたロック・コンサートにおいてであった。当局によってこのコンサートが中止されたことに対する不満から、1週間後には数千人に及ぶ学生がデモ行進を繰り広げ、さらにこのデモ行進に対して機動隊が投入され、多数の負傷者が発生した。これを憂慮するエストニア人知識人たちは『プラウダ』など各紙に公開状「40人の手紙(英語版)」を掲載した。彼らは「経済(ロシア語版)的に必要であるとして合理化されていた」ロシア化やロシア人の流入について、「エストニアの地元住民が、自分たちの土地と民族の運命に関する最終決定権を常に持つという保障」を求めた。 続く1981年には反体制派リーダーのマルト・ニクルス(エストニア語版)とユリ・クック(エストニア語版)が検挙され、クックは獄中で変死を遂げた。1982年3月には15人の知識人が署名した手紙がフィンランドの新聞に掲載され、そこではエストニア人が自らの故郷にありながら「私は誰なのか、ここは本当に私の故郷の町なのか、私の国なのか」と絶えず自身に問いかけなければならないような有様が伝えられた。1983年にもソ連各地で民族主義活動家検挙の波が起こり、エストニアからもエン・タルト (et)、ヘイキ・アホネン (et)、ラグレ・パレク(エストニア語版)などの逮捕者が出ている。
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