八木城跡とは? わかりやすく解説

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八木城跡

名称: 八木城跡
ふりがな やぎじょうあと
種別 史跡
種別2:
都道府県 兵庫県
市区町村 養父市八鹿町八木
管理団体
指定年月日 1997.03.06(平成9.03.06)
指定基準 史2
特別指定年月日
追加指定年月日
解説文: 八木城は、中世但馬きっての豪族八木氏城跡山陰道面した八鹿町八木集落後方山上にある。
 八木の地は古来より但馬因幡を結ぶ交通の要衝の地で、『延喜式』には「養耆」駅が記されている。この一帯中世には日下部本姓とする八木一族支配するところとなっていた。八木庄の地は日下部八木氏の、また隣接する朝倉庄の地は日下部朝倉氏苗字の地であり、「但馬国大田文によればこの八木一族有する荘園所職面積総計は、守護有する荘園面積総計よりも、はるかに多かった。この八木一族先祖伝える表米親王(表米王、表米命、表米宿祢とも)を尊崇し、彼を祭神とする赤渕神社但馬国各地祀っていた。なお戦国大名朝倉氏出身はこの日下部八木氏朝倉氏)であり、越前一乗谷にも赤渕神社祀られている。
 この鎌倉時代八木氏の館は八木城の麓の小字殿屋敷の地と考えられ、やはり北方赤渕神社祀られている。平成元年行われた発掘調査結果、堀・掘立柱建物検出され遺物12世紀後半から14世紀後半にかけての中国陶磁多数のほか和鏡石鍋などが出土している。南北朝期になると、山陰道通じて山名氏因幡から但馬進出してくるが、八木氏山名氏に一早く従っている。室町期には垣屋氏大田垣氏、田結庄氏とならび山名四天王称された。応仁文明期のころの人八木宗頼とその子遠秀は詩人歌人としても著名であったという(「黙」「禿尾長柄箒」)。彼らは但馬守称したといい、楞厳寺文書日光院文書には「八木但馬守」の名がみえるが、但馬盟主自負したものか。しかし天正8年(1580)羽柴秀吉但馬進攻の際、八木但馬守豊信はそれに従い、続く因幡攻に参加して因幡の[[若桜]わかさ]鬼ヶ城移された。
 この室町期八木氏居城該当する城が「[[土城]つちじろ]」であり、城山の最頂部標高409メートル)に、山稜上に連続するくるわを置き、城がまえとしている。土塁をもつくるわも多数ある。
 八木氏去ったあとの八木城には天正13年(1585)播磨から別所重棟1万千石入城しその子吉治慶長2年(1597)丹波園部移った際に(慶長6年丹波綾部に、あるいは丹波由良移ったとする史料もある)この城も廃城になったものと思われる
 この時期八木城遺構城山中腹平坦地残っている。主郭三方初期穴太積になる高石垣持ち、その高さは9・5メートルと、この時期のものとしてはきわめて高い。この東方につづく尾根上の平坦地には7つ階段状のくるわが連続するが、山腹にも多数のくるわを配しており、土城とは相当に異なる趣を示している。
 なお但馬八木氏因幡への配置、また播磨別所氏八木城への配置は、同じ但馬垣屋氏因幡浦留・桐山城への配置、また播磨赤松氏但馬竹田への配置にみるように、織豊政権版図拡大過程における大名配置、すなわち既征服地の部将を新征服対象地配置するという方法をよく示すものである
 このように八木城一連の場所に鎌倉期の館(殿屋敷)、室町期土城織豊期石垣築いた城が残っており、きわめて貴重である。また城主であった八木氏越前朝倉氏との関係や守護山名氏との関係上重要な存在である。また織豊期におけるこの城をめぐる動向その時代の武将配置典型的に示してもいる。さらに初期穴太積による高石垣は、類例少なきわめて貴重なのである。これら、この城のもつ歴史的性格遺構のもつ特色きわめて重要であり、この城跡史跡指定し、その保存を図るものである
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