フットワーク時代
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1990年に日本の運送会社のフットワークがメインスポンサーとなり、後にフットワークがチームを買収した。翌年の1991年からは、チームとして、1992年からはコンストラクターとしても「フットワーク」を名乗った。 1991年、かつてマクラーレンと組んでチャンピオンを獲得したポルシェに製作させたV12エンジンを使用してシーズンをスタートした。しかし、このエンジンは実際、マクラーレン時代のTAG V6エンジンを、ターボを外して単純に2つ並べてつなげた程度の代物で、当初チームに知らされていた寸法と実際に届けられたエンジンの寸法が異なるという前代未聞のエンジンであった。さらに他のエンジンに比べて大きく重い上、信頼性に欠け、シーズン途中で前年まで使用していたコスワースDFRV8エンジンに換装するというドタバタを演じた。なお、チームはポルシェと1993年までの4年契約(1990年は開発のみ)を結んでおり、1年あたり日本円で約45億円の巨額の使用料を払っていたが、余りの「欠陥品」ぶりに、契約を破棄せざるを得なかった。当然この年の成績は振るわず、F1参戦以来初(結果的には25年間で唯一)となる年間ノーポイントに終わった。 1992年には無限V10エンジンを使用。これに伴い、鈴木亜久里がチームに加わる。エースドライバーのミケーレ・アルボレートがリタイアわずか2回という堅実な走りでチームを引っ張った。7位が6回とすんでのところでポイント獲得を逃すことが多かったものの、対照的に、亜久里は駆動系などにトラブルを多く抱え、シャシーも長身の亜久里に合わないなどの問題があり、入賞することが出来なかった。但し、当時はまだHパターンのギヤボックスが主流であった中、シーケンシャルタイプのギヤボックスを開発するなど技術的な進歩も見られた。 1993年にはシーズン途中でマクラーレンからアクティブ・サスなどのハイテク装置を購入すると、それまでと比べ予選順位が両ドライバー(3年ぶりF1復帰のワーウィックと残留した亜久里)とも10ポジション程度アップした。弱点であったハンドリング不良が消えて戦闘力は大幅に増したが、レースではギアボックスにトラブルが続出してなかなか結果に結びつかなかった。 そしてシーズン終了後、親会社のフットワークの業績悪化からチームを手放さざるをえなくなり、ジャッキー・オリバーが再びチームオーナーとなった。 以降チーム名は以前のアロウズを名乗ったが、コンストラクターとしては1996年までフットワークと名乗り続けることになる。1994年にはジャンニ・モルビデリとクリスチャン・フィッティパルディを、1995年にはモルビデリ(途中数戦はマッシミリアーノ・パピス)と井上隆智穂を起用したが、この頃には予算不足でマシンの信頼性、戦闘力も上がらないうえ、テストもまともに行えないなど低迷期を迎えることとなる。
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フットワーク時代
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「デレック・ワーウィック」の記事における「フットワーク時代」の解説
前年の活躍をきっかけに、1993年にはフットワークからF1に復帰し無限ホンダエンジンを搭載するFA14を駆る。マクラーレンと技術提携し戦闘力が増した後半戦に調子を上げるも、特にギアボックスの信頼性が低く入賞は4位・6位がそれぞれ1回ずつとなった(ただし、チームメイトの鈴木亜久里はノーポイント)。予選では亜久里に9勝7敗だった。 同年親会社のフットワークの経営悪化が著しくなりチーム売却が報じられる状況となり、結果ジャッキー・オリバーが再びチームオーナーとなった。この混乱期にチーム資金面の問題からより資金の持ち込めるドライバーが求められ、1994年に向けてはジャンニ・モルビデリとクリスチャン・フィッティパルディが起用されワーウィックはシートを失った。
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フットワーク時代
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「ミケーレ・アルボレート」の記事における「フットワーク時代」の解説
1990年 アロウズに1stドライバーとして移籍加入。チームメイトはイタリアの若手アレックス・カフィとなった。日本の運輸会社「フットワーク」がメインスポンサーとなりチームの財政基盤の安定が期待されたが、トップチームと比して非力な存在となっていたDFR・V8エンジンと、前年度シャシーの熟成版であったアロウズ・A11Bは戦闘力が低く、カフィ共々3度の予選落ちも喫した。全16戦中8戦で完走を果たしたが、カフィがモナコGPでサバイバルレースを生き残りポイントを獲得したのに対し、アルボレートの最高位は9位で入賞には遠いシーズンとなった。 1991年 鳴り物入りでのF1復帰となるポルシェのワークスV12エンジンを獲得し、斬新なフロントノーズを持つニューマシン「FA12」に多大な期待が掛けられたが、このV12エンジンは重量が非常に重いだけでなく、パワーや信頼性も欠けており、開幕戦から予選通過にも苦労するテールエンドでの戦いが続いた。序盤の6レース限りでポルシェエンジンを諦め、第7戦からは前年使用していたフォードDFRエンジンを搭載する事態となった。「ポルシェV12用に設計したのにV8エンジンを載せてるから重量配分がめちゃくちゃ」とアルボレートがマシンを語る状況で、シーズン終盤に2度完走するに留まり、豪雨のため中断終了となった最終戦オーストラリアGPで記録した13位が最高成績と散々なシーズンに終わった。シーズン前半の成績が低調だったため、同年後半から予備予選の出走義務が課され、1989年のラルース時代以来2年ぶりの予備予選不通過(ベルギーGP)の屈辱も味わった。予備予選落ち(ラルースでの2回を含め通算3回)の経験があり、なおかつF1優勝経験のあるドライバーは、アルボレート唯1人だけである。 1992年 チームは新たに無限ホンダV10エンジンを獲得し、新シャシー「FA13」での参戦。フットワーク社がF3000時代から支援する鈴木亜久里がチームメイトとなった。フットワーク大橋渡オーナー肝いりである亜久里は複数年契約での加入であり、実質上ファーストドライバー待遇であったため、フットワークには1台が昨年後半に続き予備予選の出走義務を課されていたが(アンドレア・モーダの欠場により1、2、8戦目の予備予選は中止)、予備予選出走はアルボレートの担当となった。前年より明らかに速いマシン及びアルボレート自身の好調で予備予選は全戦通過。亜久里がリタイアや予選落ちをする中、アルボレートは第3戦ブラジルGPで6位入賞し自身1989年以来となる久々のポイントを獲得すると、第4戦スペイン・第5戦サンマリノと連続で5位に食い込み3戦連続入賞など状況が整えば速さが発揮できることを示した。ポイント獲得により後半戦は予備予選を免除され、全16戦中14戦を完走し、前年の最終戦からこの年のベルギーGPをエンジントラブルによりリタイアするまでの12レース連続完走も達成。7位完走が16戦中6回などあと一歩で入賞を逃す(当時は入賞ポイント獲得は6位まで)レースも多かったが、この年最も多くの周回数をこなしたF1ドライバーとなりその実力が再評価される。しかし第15戦日本GP直前に、チームオーナー大橋の後押しがあり複数年契約である亜久里の来季残留公式発表があり、その場では同年のSWCでプジョー・905をワールドチャンピオンに導いたデレック・ワーウィックと新たに契約したことも併せて発表され、好成績を残したアルボレートだったが同シーズン終了をもって放出された。
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