シュトライヒャーの発言
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/12 08:06 UTC 版)
「ユリウス・シュトライヒャー」の記事における「シュトライヒャーの発言」の解説
「同棲している場合、男性の精液は、その一部または全部が相手の女性に吸収され血液に流れ込む。アーリア人女性が一度でもユダヤ人男性と同棲すれば、その女性の血は永遠に汚されてしまう。彼女は純粋なアーリア人の子供を二度と産めなくなるのである」(『シュテュルマー』紙の記事) 「ドイツの土地は、権力を握っている国際ユダヤ人に売却されたり、抵当にとられたりしている。」(1927年、アンスバッハで行った演説) 「世界大戦は世界諸国民のうえを旋回し、結局廃墟の山を残した。この恐ろしい戦争の中で勝者として残ったのはたった一民族にすぎなかった。それはキリストがいうところでは、悪魔を父とする民族である。その民族はドイツ民族の肉体も魂も破滅させたのだ。しかしその時ヒトラーが立ちあがったことにより、世界人類は再びこの民族から自由になるであろうという新たな勇気を与えられた。この民族は犯罪者の印を帯びたまま数百年、数千年に渡って世界を放浪してきた。諸君。ユダヤ人が選ばれた民族と自称してもそのようなことを信じるな。ユダヤ人は選ばれた民ではないと主張する我らを信じよ。なぜなら選ばれた民族が、今日のユダヤ人のようなことをやっているわけがないからである。選ばれた民族は他者を自分たちのために働かせ、その生き血を吸ったりしない。選ばれた民族は、農民たちを農地から追放したり、諸国民を貧困化させて絶滅させたりしない。選ばれた民族は動物を虐殺したり、他人の労働の汗によって生きようとはしない。さらに選ばれた民族は自分が働いているが故に生きている人々の仲間に入ろうとする。諸君。このことを忘れるな。我々は諸君らのために牢獄に入ったし、常にあざけりや辱めを受けてきた。そして諸君らのために我々はキリストが戦ってきた組織された世界犯罪団体に対する戦士に、すなわちこれまでで最大の反ユダヤ主義者になったのだ」(1935年の演説) 「ドイツ人は、ユダヤ人に対する戦いである反ユダヤ主義を生み出したとして非難され、そのために野蛮人であると責められている。このようなことを主張する者は、真実を述べていない。数千年前から、非ユダヤ人は侵入者であるユダヤ人から自分たちを守ることを強いられてきた。この苦闘が終わらないので、非ユダヤ人から摂取することで生き延び、自分たちが世界の支配者として選ばれた人種であると主張するユダヤ人に非難が向けられている。世界人類の平和は、戦争の恩恵を受ける者たちが、戦争を再び行うように地球上の人々を駆り立てることができなくなったときにのみ実現される。つまり、ユダヤ人問題が解決しない限り、人類に解決は訪れない。」(1935年の演説) 「数年前、『シュテュルマー』紙がマダガスカル島へのユダヤ人移送がユダヤ人問題解決の一つの可能性であると書いた時、我々はユダヤ人やその仲間たちに嘲笑された。非人間的であると言われた。だが今日我々の提案はすでに外国の政治家も論じているではないか。日刊紙の報道によればフランス外相デルボスがワルシャワで行った協議で、ポーランドはユダヤ人の一部をマダガスカルへ移す事が出来ないかと提案したそうである。いずれにせよ、新生ドイツは救済へ至る途上にある。ドイツが救済されれば、世界が救済されるだろう。永遠なるユダヤ人からの救済である」(1938年1月) 「私は、ユダヤ人についてはユダヤ人自身よりも詳しい。きみ(グスタフ・ギルバート)がユダヤ人だということは、前々から声の調子で分かっていた。最初は確信が持てなかった。だが、他の人間が教えてくれたので、声を聴いてみたところ、やはりそうだと分かったのだ。」(1946年1月24日のインタビューで) 「私はある意味ではユダヤ人を称賛している。なにしろ、これほど小さい集団でありながら、常に世界の支配者として君臨してきたのだから。たとえば、キリストはユダヤ人だった。ドイツが敗北した今、ソ連ではユダヤ人のボリシェヴィズムが勢力をふるっている。スターリンは名目上の指導者にすぎない。彼の背後にはユダヤ人がいる。そして、北米に根付いているのはユダヤ人の民主主義だ。」(同上) 「私の新聞には立派な目的があった。今頃一部の俗物はそれを見下したり、下品だのポルノだの言ってるかもしれないが、終戦を迎えるまで私はヒトラーから大いに尊敬されており、『デア・シュテュルマー』は党から全面的に支持されていた。最盛期の発行部数は150万部にのぼった。誰もが『デア・シュテュルマー』を読んでいたし、気にいっていたはずだ。そうでなければ誰も買わなかっただろう。『デア・シュテュルマー』の目的はドイツ人を団結させることであり、ドイツの素晴らしい文化を破壊しかねないユダヤ人の影響を彼らに認識させることだった」(1946年4月6日のインタビューで) 「ゲーリングは私に腹を立てており、いわゆるゲーリング委員会を設置して党のフランケン大管区指導者だった私の素行調査を行った。私は債権や株券を不法所持しているとされたが、それらの容疑は立証されなかった。確かにユダヤ人から没収した株式を少しの間持ち歩いていたことがあったが、自分にそのような株式の所有権があると誤って教えられていたためであり、それが違法所持であることに気付くと、ただちに全てを国庫に提出したのだ。1940年の裁判の結果、私はニュルンベルクを離れてフュルトの地所で暮らすことを余儀なくされた。それでもヒトラーの支援で『シュテュルマー』の発行は続けることができた。編集主幹の立場を退くことなく、ホルツやヒーマーなどの仲間とともに毎日、或いは毎週会議して『シュテュルマー』の記事を漏れなくチェックしたのだ。ヒトラーが支援してくれたのは私が1923年のミュンヘン一揆に加わっていたからだ。あの事件でヒトラーとともに並んで行進したことを私は大変誇りに思っている。ヒトラーはそのことを決して忘れなかったし、私に対する彼の信頼は最後まで変わらなかった。私とて彼への忠誠の誓いを破ったことはない」(同上。失脚について聞かれて) 「待ってくれ!私はユダヤ人虐殺とは何の関係もない。1940年以降の私は農場主として暮らした。私が何も知らないからには、ヒトラーはきっと1941年以降にユダヤ人の絶滅を決意したのだろう。ヒトラーには『彼らが戦争を起こした。今度は私が彼らを始末してやる』という思いがあったのかもしれない。ヒトラーが正しかったというつもりはない。それは間違った政策だったと思う。私はマダガスカルであれパレスチナであれ、どこかにユダヤ人の国を作ってそこへ移住させる政策には賛成だったが、絶滅政策についてはその限りではない。400万人のユダヤ人虐殺-この裁判では500万人とも600万人ともされているが、それは宣伝にすぎない。多くても450万人を超えていないはずだ。-によって、ユダヤ人は殉教者になってしまった。ユダヤ人虐殺のせいで各国で順調に発展していた反ユダヤ主義運動は何年も後戻りした。」(同上、ホロコーストについて聞かれて) 「もしマルティン・ルターが今日生存しているなら、彼は私とともに被告席に座らなければならなかったであろう。なぜならルターはユダヤ人と彼らの嘘に対して非常に厳しかった。『ユダヤ人は蛇であるから焼き殺せ』と主張していたのだ。それに対して私はただ単にユダヤ問題を人々に説明しようとしただけだ。ドイツには昔から反ユダヤ主義文献が数多く存在した。私は20年にわたって『デア・シュテュルマー』の社説を書いてきたが、ただの一度もユダヤ人を殺害し、彼らの生家を焼き払えとそそのかしたことはない。」(1946年4月29日、裁判の検察側尋問で) 「私は今までアウシュヴィッツを知らなかった。この裁判が始まるまで知らなかったのだ。人が反ユダヤ主義をもって任じることはしごくもっともで受け入れられてはいるが、女性や子供を虐殺することは異常で、信じがたい。ここにいる被告は誰もそんなことを望んでいなかった」(1946年6月15日のインタビューで)
※この「シュトライヒャーの発言」の解説は、「ユリウス・シュトライヒャー」の解説の一部です。
「シュトライヒャーの発言」を含む「ユリウス・シュトライヒャー」の記事については、「ユリウス・シュトライヒャー」の概要を参照ください。
- シュトライヒャーの発言のページへのリンク