キリスト教と信仰、南蛮文化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 05:48 UTC 版)
「大友義鎮」の記事における「キリスト教と信仰、南蛮文化」の解説
キリシタン大名としても知られる宗麟だが、天文20年(1551年)に豊後へ布教のためにやってきたイエズス会宣教師・フランシスコ・ザビエルを引見したことがキリスト教との出会いであった。27年後の天正6年(1578年)7月にキリスト教の洗礼を受け、ポルトガル国王に親書を持たせた家臣を派遣している。領内での布教活動を保護し、南蛮貿易を行う。また博多商人の島井宗室や神屋宗湛らと交友し、日明貿易や日朝貿易も行った。しかし実際に明国や朝鮮などとの貿易が利益をもたらしていたのは15世紀後半辺りまでで、三浦の乱を契機に少なくとも明・朝鮮との貿易関係は衰退し、名義上大友氏の看板を利用した対馬国の国人や博多の豪商らに実利は移ってしまった。また輸入品は食料や武器など経済・軍事的に影響する物は少なく、多くはいわゆる「奢侈品」であったとされ、それ程実質的な利益は上げていなかったことが外山幹夫の著作などで指摘されている。むしろ宗麟時代は有力家臣へ恩賞として与える領土が不足し、寺社領の没収や領地の代わりに杏葉紋(大友氏の使用した家紋)の使用権を与えるなどして代用するなど経済状況は決して良くはなかった。 宗麟は、キリスト教に好意を持ちながらも、府内最大の寺院寺万寿寺を保護し、京都大徳寺瑞峰院の名僧怡雲(いうん)禅師を招いて禅を修め、1562年(永禄5)に入道して瑞峰宗麟と称した。こうした風貌は宣教師を当惑させたが、宗麟がイエズス会を保護することに変わりはなかった。 キリシタンとなったのは従来の仏教を見限りキリスト教に帰依したためであるが、キリシタンになったことが大友家臣団の離反を招き、晩年に国人の反乱多発という形で表面化することとなる。また、宗麟はキリスト教信仰のために、神社仏閣を徹底的に破壊する(「住吉大明神破却」「彦山焼き討ち」「万寿炎上」など)、金曜日・土曜日には断食をする、それまで家に伝わっていただるまをも破壊する等の破壊行為も行なっている。宗麟がキリスト教のために徹底した神社仏閣破の破壊解体を行ったのは、主にキリスト教国建設を夢見たとされる侵略先の日向においてであり、本拠である豊後や筑後で行われた神社仏閣の徹底的な破壊は次期当主義統が行ったもので、宗麟が主導したという資料は見当たらない。これは当然に宗教心が発した行動であり、仏僧の奢侈を嫌い寺社領を取り上げる政治的意図があったにせよ、単に寺社を破壊するだけでなく仏像や経典の類まで徹底して破壊されている。 若い頃、南蛮人が持ってきた鉄砲が試し撃ちの際に暴発して弟の晴英が手に怪我をしたが、その時に西洋医学による応急処置を見ている。また、弘治3年(1557年)に府内(現在の大分県庁舎本館のある場所)で日本初の西洋外科手術をポルトガル人医師1名(ルイス・アルメイダ)と、助手に日本人医師2名の計3名で行わせた。当時の豊後国はらい病が風土病になっており、らい病の手術と大分県史に記されている。日本人医師2名は杏葉紋・苗字・太刀を宗麟から賜っている。現在、大分県庁舎本館前には「日本における西洋外科手術発祥の地」の記念碑が立っている。加えて宗麟は領内に、宣教師が伝えた西洋医学の診療所を作り、領民は無料で診察を受けることができた。 臼杵城に篭城する際に、宗麟はキリスト教徒もそうでない者も城に避難させ、自ら握り飯等を配った。宣教師はそうした行いを記録にまとめ、その中で宗麟のことは「王」と記している。キリスト教には「汝、殺すなかれ」という教えがあるが、宣教師はキリスト教信仰に基づく宗麟の質問に対して、戦の上で殺生は何の問題も無いと返答している。 天正10年(1582年)に九州のキリシタン大名らがローマへ派遣した天正遣欧少年使節では、伊東マンショを名代として派遣している。ただし、この件を宗麟本人が関知していなかった可能性が高いという説もある。詳しくは伊東マンショの項を参照。 ニホンカボチャは天文年間(1532年-1555年)に豊後国(現在の大分県)にポルトガル人がカンボジアから持ち込んで宗麟に献上したという説が有力である。このカボチャは「宗麟かぼちゃ」と名づけられ大分県などで伝統的に栽培されている。
※この「キリスト教と信仰、南蛮文化」の解説は、「大友義鎮」の解説の一部です。
「キリスト教と信仰、南蛮文化」を含む「大友義鎮」の記事については、「大友義鎮」の概要を参照ください。
- キリスト教と信仰、南蛮文化のページへのリンク