アッバース1世の再興
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「サファヴィー朝」の記事における「アッバース1世の再興」の解説
1587年、ヘラートにいたムハンマドの王子アッバース(1世)はムルシド・クリー・ハーン・ウスタージャルー(波: مرشدقلی خان)に擁立されて兵をあげ、首都ガズヴィーンを占領して父から王位を譲り受けた。翌1588年、17歳のアッバース1世はクズルバシュを抑えて実権を掌握し、1590年にオスマン帝国及びシャイバーニー朝と和平を結んで軍事活動を中断した。 アッバース1世は、クズルバシュに頼った軍事制度を改め、オスマンにも対抗できる軍隊を目指した。クズルバシュから選出されたコルチ軍団と、グルジア系、アルメニア系出身の奴隷からなるグラーム軍団のふたつからなる常備騎兵軍を組織すると共に、ペルシア系定住民出身者を中心とする銃兵軍団、砲兵軍団を創設した。 1597年、アッバース1世は、ガズヴィーンからペルシア中部のイスファハーン(エスファハーン)に遷都し、イスファハーン旧市街の郊外に王宮を中心に庭園に囲まれた新都が造営された。新都と旧市街の中間に「王の広場」を中心に「王のモスク」(現イマーム・モスク)などのモスクが立ち並ぶ公共空間が建設され、ペルシア系、テュルク系の宮廷の人々のほか、アルメニア商人やインド商人など遠隔地交易に従事する多くの異郷出身者が住み着いたイスファハーンの人口は50万人に達した。 アッバース1世は盛んな軍事行動や建設事業の財源としてそれまでクズルバシュの部族が支配していた土地を没収して王領地に収め、君主権力を拡大した。アッバース1世の時代にサファヴィー朝はそれまでの遊牧国家型の分権的な体制を抜け出し、ライバルであったオスマン帝国と同じように、君主の絶対権力のもとで君主の信任によってのみ権力を保障されるエリートたちが統治を担う専制国家へとさらなる転身を遂げた。 1598年、攻勢に出たアッバース1世はシャイバーニー朝を破ってホラーサーンを回復した。第三次オスマン・サファヴィー戦争(英語版)では、1603年にオスマンと開戦してアゼルバイジャンを回復し、ディムディムの戦い(英語版)(1609年 - 1610年)後の1612年にナスフ・パシャ条約(英語版)が結ばれ、カヘティ・カルトリ遠征(英語版)(1616年)に勝利して1618年にセラヴ条約(英語版)が結ばれた。 アッバース1世の軍事的成功には、彼個人の才能も十分あるが、同時期に西欧諸国との同盟関係も大きいと言える。特に17世紀に全盛期を迎えたネーデルラント連邦共和国(オランダ)との同盟はサファヴィー朝の強化に貢献した。オランダの起こした軍事革命による恩恵も大きかっただろう。西欧との同盟関係は、オスマン帝国との政治的な問題でもあった。西欧は、ヨーロッパに食い込むオスマンを駆逐するために有益なアジアの同盟者として、オスマンの背後にいるサファヴィー朝との関係を重視したのである。オスマン帝国の弱体化は双方にとって有益であり、サファヴィー朝にとってもヨーロッパの先進的な軍事力は、国力強化や中央集権化など、国益に繋がるものであった。 イングランド王国とは重要な関係を築き、1616年にアッバース1世とイギリス東インド会社の間で貿易協定が結ばれた。この時期、ロバート・シャーリーに率いられたイングランド人冒険者の一団は、ペルシア軍の近代化に重要な役割を果たし、西側との接触を発展させた。1622年、イングランド・ペルシア連合軍はホルムズ島を占領し(ホルムズ占領)、ペルシャ湾からポルトガルとスペインの貿易商人を追放した。1624年、ロバート・シャーリーは貿易協商を締結するために、イングランドにペルシア大使館を設立させた。同1624年には100年ぶりにバグダードを再征服して創建当時のサファヴィー朝の領域を取り戻し、サファヴィー朝はアッバース1世のもとで最盛期を迎える。
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