かんむてんのうとは? わかりやすく解説

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かんむ‐てんのう〔クワンムテンワウ〕【桓武天皇】

読み方:かんむてんのう

737〜806]第50代天皇在位781〜806。光仁天皇の第1皇子。諱(いみな)は山部長岡京平安京への遷都蝦夷(えぞ)征討最澄空海登用による平安仏教確立地方政治振興など内政面業績が多い。柏原(かしわばら)天皇


桓武天皇

山部皇子は、773年廃太子された他戸親王代わり立太子したが、母の高野新笠百済渡来人出身であったので周囲から反対された。
しかし藤原百川らの強い推挙により実現した
なお、この山部親王立太子により天武系の皇統は完全に途絶えた
781年病と老齢理由退位した父に代わり即位して桓武天皇となった
皇太子には同母弟の早良親王とした。
782年氷上真人川継が謀反起こした捕らえられ流刑処せられた。
784年政情不安・凶作疫病の流行理由年号変え長岡京遷都した。
785年頼みとしていた藤原百川の甥の中納言式部卿藤原種継暗殺された。
この事件により大伴継人大伴竹良らが捕らえられ処刑された。
また早良親王皇太子廃され乙訓寺幽閉され、のちに淡路配流となりその道中で没した
皇太子には長男安殿親王とした。
これに連座して万葉歌人大伴家持(すでに故人となっていた)らの官職剥奪した
この後大飢饉発生するなど忌まわしい出来事起こったので、陰陽師に占わせたところ、安殿親王の病は早良親王(怨霊鎮魂のため早良親王崇道天皇追号する)の怨霊祟りとされた。
794年桓武天皇はその不吉から逃れるため和気清麻呂提案受けて平安京(この後1180年福原遷都除き1869年明治2年まで続いた都)に遷都した。
桓武天皇は、791年坂上田村麻呂征夷大将軍とし蝦夷を討たせ、また794年藤原継縄菅野真道らに国史編纂797年『続日本紀』として完成)を命じた
804年には空海最澄らを唐に派遣する
桓武天皇はまた宗教界統制し、さらに勘解由使設置して国司監督強化し天皇による強力な政治行った


桓武天皇 柏原陵
(かんむてんのう かしわばらのみささぎ)

御陵写真 陵印
代   数 :第50代
天 皇 名 :桓武天皇
(かんむてんのう)
御   父 光仁天皇
御   母 :贈太皇太后天高知日之子姫尊
御 陵 名 柏原陵
かしわばらみささぎ
陵   形 円丘
所 在 地 京都府京都市伏見区桃山町永井久太郎
交通機関等 京阪近鉄丹波橋下車  東へ1km
陵印保管場所 桃山陵墓監区事務所


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