アンリ4世 (フランス王)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/13 23:00 UTC 版)
アンリ4世 Henri IV | |
---|---|
フランス国王 ナバラ国王 | |
アンリ4世(フランス・プルビュス画) | |
在位 |
1572年6月9日 – 1610年5月14日(ナバラ) 1589年8月2日 – 1610年5月14日(フランス) |
戴冠式 |
1594年2月27日(フランス) 於シャルトル大聖堂 |
別号 | アンドラ大公 |
出生 |
1553年12月13日 ナバラ王国 ベアルン地方 ポー |
死去 |
1610年5月14日(56歳没) フランス王国 パリ |
埋葬 |
フランス王国 サン=ドニ サン=ドニ大聖堂 |
配偶者 | マルグリット・ド・ヴァロワ |
マリー・ド・メディシス | |
子女 | |
家名 | ブルボン=ヴァンドーム家 |
王朝 | ブルボン朝 |
父親 | アントワーヌ・ド・ブルボン=ヴァンドーム |
母親 | ジャンヌ・ダルブレ |
宗教 | キリスト教改革派教会→カトリック教会→改革派教会→カトリック教会 |
ユグノー戦争で叔父コンデ公ルイが戦死したため、年少にしてユグノーの盟主となる。1572年、自身の婚礼に際して企てられたサン・バルテルミの虐殺に遭遇したが、カトリックに改宗して難を避け、1576年に脱走して再びプロテスタントに復帰し、1589年のアンリ3世の暗殺により王位を継承する。その後再度カトリックに改宗して国内を平定し、1598年にナントの勅令を発布してカトリックとユグノーとの国内融和に努め、40年近くにわたる戦争を終結させた。戦後は戦争によって疲弊した国家の再建を行ったが、1610年に狂信的なカトリック信者によって暗殺された。在位中から現代に至るまでフランス国民の間で人気の高い王の一人で、大アンリ(Henri le Grand)、良王アンリ(le bon roi Henri)と呼ばれる。1959年から発行された50フラン紙幣において肖像が採用されていた。ルイ13世は子、ルイ14世は孫、グラン・ドーファンは曾孫、ブルゴーニュ公ルイは玄孫、ルイ15世は来孫、ルイ・フェルディナンは昆孫、ルイ16世は仍孫、ルイ17世は雲孫である。
- ^ 「聖なる王権ブルボン家」P15
- ^ 「聖なる王権ブルボン家」p15
- ^ 「聖なる王権ブルボン家」p17
- ^ 「聖なる王権ブルボン家」p20
- ^ a b c 「聖なる王権ブルボン家」p23
- ^ 「聖なる王権ブルボン家」p31
- ^ 「聖なる王権ブルボン家」p31-32
- ^ a b 「聖なる王権ブルボン家」p33
- ^ 「聖なる王権ブルボン家」p40
- ^ 「世界の歴史8 絶対君主と人民」p36
- ^ 「聖なる王権ブルボン家」p44-46
- ^ 「世界の歴史7 文芸復興の時代」p271
- ^ 「世界の歴史8 絶対君主と人民」p38
- ^ 「聖なる王権ブルボン家」p47
- ^ 「世界の歴史15 近代ヨーロッパへの道」p167
- ^ 「聖なる王権ブルボン家」p53-54
- ^ 「世界の歴史8 絶対君主と人民」p42
- ^ 「聖なる王権ブルボン家」p55-56
- ^ 「世界の歴史17 ヨーロッパ近世の開花」p256
- ^ 「世界の歴史22 近代ヨーロッパの情熱と苦悩」p256
- ^ 「世界の歴史8 絶対君主と人民」p40-41
- ^ 「世界の歴史17 ヨーロッパ近世の開花」p257
- ^ 「聖なる王権ブルボン家」p59
- ^ 「聖なる王権ブルボン家」p60
- ^ 流転200年・・・仏国王アンリ4世の頭部、本物と断定、AFPBB News、2010年12月31日閲覧
- ^ ジャンニ・デイヴィス 『消えた屍体:死と消失と発見の物語』 堀口容子著・訳 グラフィック社 2019年 ISBN 978-4-7661-3202-1 pp.86-91.
- ^ 仏国王の頭部は「偽物」、先行研究覆すDNA分析結果 - AFPBB News、2013年10月11日、2019年3月29日閲覧
- アンリ4世 (フランス王)のページへのリンク