NTV紅白歌のベストテン オープニング

NTV紅白歌のベストテン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/07 15:55 UTC 版)

オープニング

冒頭

紅組キャプテン)「皆さーん、こんばんはーっ!!」(観客)「こんばんはーっ!!

タイトルコール

)「それではそろそろまいりましょうかー!」()「NTV(エヌティーヴィー)」()「紅白歌の」(&観客)「ベストテーン!!

1回目のCM明け

)「あっ、さてぇ〜

これら3セリフは、堺・大場時代(1979年以降)からは言わなくなったが、後年の「今夜復活!!」(後述)の時も使われた。

レギュラー

白組キャプテン(司会)
紅組キャプテン(司会)
  • 水前寺清子(放送開始 - 12月)[注釈 9] 
    • 1970年にスタートした「ありがとう」(TBS)への出演や地方公演、テレビ番組出演の関係でスケジュール調整が困難となり、1クールで降板となった。
    • 水前寺は番組開始前年である1968年の『第19回NHK紅白歌合戦』で紅組司会を務めており、この時の司会ぶりの評価が本番組起用に繋がった。一方で翌1969年の『第20回NHK紅白歌合戦』でも水前寺は紅組司会の有力候補に挙がったが、本番組に起用されたことでそちらの起用を見送られるという事態も発生している(堺についても同回の白組司会の候補に挙がっていたという)。ただし、水前寺は本番組キャプテンを降板した後、本家紅白の紅組司会を3回務めている(堺も本番組終了後、3回白組司会に起用されている)[4]。また1972年の『第23回NHK紅白歌合戦』では、水前寺は紅組の応援団長、堺は白組の応援団長を務めた事があった。
  • 週替り(1970年1月 - 3月)[注釈 9]
    • この間、ベストテン本部の担当である山本直純梓英子、コーナーレギュラーとして出演していた丹下キヨ子が紅組のキャプテン役を務めるゲスト歌手のアシスト役も兼務していた。
  • 倍賞美津子(1970年4月 - 9月)[注釈 9]
    • 降板後は1979年5月21日放送の「500回記念大会」に、水前寺・今・岡崎と共に歴代キャプテンとして出演したのみ、当番組の最終回を初め、『今夜復活』(後述)や『トップテンシリーズ』最終回には出演しなかった。
  • 今陽子(1970年10月 - 1973年12月)[注釈 9]
  • 岡崎友紀(1974年1月 - 1979年4月)[注釈 9]
  • 大場久美子(1979年4月 - 1980年3月)
  • 榊原郁恵(1980年4月 - 放送終了)
進行役(主にベストテン本部担当)
  • 山本直純(1969年10月 - 1970年3月)
  • 梓英子(1969年10月 - 1970年3月)
  • 徳光和夫(当時日本テレビアナウンサー)(1970年1月 - 1981年3月)[注釈 10]
    • 開始当初は山本が総合司会、梓がアシスタントという位置づけでベストテン本部の進行を担当。
    • 徳光は元々、紅組キャプテン役が暫定的に週替わり制となり、放送中に本部を抜けて当日の生中継が行われている会場(後楽園ホールなど)へ移動して(主に紅組側の)進行のアシストを務めることになった山本・梓の本部不在時の留守を預かる役回りとして起用されたが、1970年春の改編で2代目の紅組キャプテンに倍賞が起用されることになり、それに伴い番組構成の一部をリニューアルすることになったのに伴い山本・梓が降板することになったため、そのまま正式な進行役として番組への出演を継続。これ以降、山本・梓同様に、徳光も回によっては本部を抜け出し渋谷公会堂のステージに出演して進行補助を務める事が増えて行った(徳光が本部不在時のスタジオ進行代行は本多当一郎福留功男小林完吾など実況・ナレーターとして番組に参加していた局アナウンサーが担当)。
    • 梓の降板後は女性の進行役は固定されず、都内に在住の一般応募の女性や榊原郁恵、当時日本テレビに在籍していた女性アナウンサー(石川牧子楠田枝里子など)が週替りで担当。放送末期の頃は女性の進行役は置かれず専ら徳光が単独で本部の進行(および会場進行のアシスト)を担当していた。
その他
  • 丹下キヨ子 - 番組初期にコーナーレギュラーとして出演(1970年3月まで)。
  • 本多当一郎(当時日本テレビアナウンサー)- 初期の頃に実況アナウンスを担当。徳光欠席・渋谷公会堂にいる際にはベストテン本部進行の代役も担当。
  • 舛方勝宏(当時日本テレビアナウンサー) - 同上
  • 福留功男(当時日本テレビアナウンサー) - 中期以降、実況アナウンスを担当。徳光欠席・渋谷公会堂にいる際にはベストテン本部進行の代役も担当。
  • 松永二三男(当時日本テレビアナウンサー)- 同上
  • 小林完吾(当時日本テレビアナウンサー) - 主に「ウソ発見器」の影の声を担当。徳光が欠席・渋谷公会堂にいる際にはベストテン本部進行の代役も担当。
  • 小堺一機 - 堺・榊原時代に「どこでもマン」と称して、中継レポートや徳光がベストテン本部にいる際の渋谷公会堂の進行役を担当。元々は前説を担当しており、そこからの昇格だった。『ザ・トップテン』も続投。
  • スクールメイツ (不明 - 1977年途中)
  • ザ・バーズ (1977年途中 - 番組終了)
演奏
  • 宮間利之とニューハード(1969年10月 - 1978年頃)
  • 指揮 - 宮間利之
週によっては高橋達也と東京ユニオン、森寿男とブルーコーツが担当することもあった。
  • ガッシュアウト(1978年頃 - 1981年3月)

渡辺プロ事件

1973年、この番組と同じ時間帯に渡辺プロダクション(以下ナベプロ)がNETテレビ(現・テレビ朝日)とタッグを組み、新規に『スター・オン・ステージ あなたならOK!』を水面下で計画し、それをぶつけてきた(これは、ナベプロ以外の芸能プロダクションへも人気スターを供給し、芸能界におけるテレビ局優位の端緒となった日本テレビ(NTV)制作『スター誕生!』に対抗する意図もあった)。

これを知ったNTVの制作局次長、井原高忠(当時の同局の音楽・バラエティ番組制作部門の責任者)はナベプロと話し合いをしたが、ナベプロ側は「それじゃあ、お宅の番組を打ち切るか時間を移動させればいいじゃないか」[5][6] と主張し、さらにNTVサイドに対して、「放送時間をずらさないのであれば今後、『歌のベストテン』にうちのタレントは出演させない」と通告してきた。NTVは、ナベプロ側の要求を受け入れて『歌のベストテン』の放送時間帯を移動するか、この挑戦を受けて立つかの選択を迫られた。井原はナベプロ以外の全芸能プロダクションからの全面協力[注釈 11]を得た上で後者を選択[6]。真っ向からこの挑戦を受けた[7]

なお、ナベプロ側には、当時NET系列局[注釈 12]だった毎日放送の社長、高橋信三に『あなたならOK!』の放送枠の手配の協力を仰ぎ、再三にわたり調整した結果確保できたのがNET系列月曜20時枠だったという経緯からこれ以上枠を動かせなくなり、またこの当時は、同一時間帯の表裏番組への出演は芸能事務所単位で調整し、違うタレントでも同じ事務所なら裏被りを避ける放送業界の習慣が残っていたことから、NTV側が『歌のベストテン』の枠を移動するかナベプロ側が『あなたならOK!』からタレント引上げるかのどちらかしか選択肢がなくなった結果前述の要求へと至り、渡辺晋と井原との個人的な繋がりや、ナベプロとNTVとの関係をも犠牲にせざるを得なくなったという事情があった[8]

NTVはナベプロとの共同制作の金曜日22時からの新番組の予定を白紙にし、その時間帯を使い『金曜10時!うわさのチャンネル!!』を開始した。この番組にはナベプロのタレントを一切出演させなかったが、視聴率30%台を記録することもあった。これに対し、『あなたならOK!』は出演者がナベプロ所属のタレントばかりとなり、他のプロダクション所属のタレントは出演しなかったこと、視聴者の音楽嗜好の変化などが響き、視聴率は低迷。番組そのものも半年でレギュラー番組としては終了した[注釈 13][6]。ナベプロの一強が崩壊する遠因にもなった[6]

なお、この間も『TVジョッキー』や『特ダネ登場!?』など井原が関わっていなかったバラエティ番組、読売テレビなどの系列局が制作した番組には、引き続きナベプロのタレントが出演していた他、太田裕美などナベプロのニューミュージック部門『NON STOPプロジェクト』所属歌手も引き続き出演し、ナベプロ傘下の東京音楽学院によるスクールメイツも1977年に日本テレビ音楽学院ザ・バーズに交代するまで、バックダンサーとしての出演を継続していた。また、ナベプロ傘下の渡辺企画とNTVは『前略おふくろ様』などのテレビドラマを共同制作していたほか、TBSを除く各キー局が持ち回りで制作していた『日本歌謡大賞』は日本テレビ制作回であっても出演を拒否させなかった。こうした形でナベプロはNTVとの関係を維持するための一定の配慮を行っていた。

毎年、日本歌謡大賞の翌週の放送回に同賞受賞者がゲスト出演することが恒例で、沢田研二(当時ナベプロ所属)は1977年に大賞を受賞した「勝手にしやがれ」(作詞は阿久悠)で例外的に出演している。

この影響か、『速報!歌の大辞テン』など後年のNTV系番組で1970年代後半のナベプロ所属歌手の映像を放送する際には、同社が著作権を保有する他局向け番組素材を提供していた。


注釈

  1. ^ ただし、この回は前夜祭で、様々な歌手が応援に駆け付けて放送した(10組以上)[1]。内容は不明。
  2. ^ 1972年10月から1975年9月までは20時00分 - 20時55分、1975年10月以降は20時00分 - 20時54分。いずれも「NNNニューススポット」拡大のため。
  3. ^ 渋谷公会堂で行われるようになったのは1970年4月から[3]。それまでは後楽園ホールなど関東各地の公会堂を巡回していた。
  4. ^ スタート当初では出場歌手や観客にこの回の結果を予想してもらい、ズバリ的中した歌手や観客にもこの製品が贈られた。
  5. ^ 紅組が赤白組が白の衣装を着用。なお、白組に就いていたメンバーには男性が数名含まれていた。
  6. ^ 「ベストテン本部」パートは通常通り生放送、そして「結果発表」は当然ながら両キャプテンには教えない。
  7. ^ ただし、1973年は、12月17日に前倒ししてこの企画を行い、さらに最終週となった12月31日には「ヤング紅白歌合戦!」という企画を放送。1979年にはやはり12月24日に前倒しして行った。この他1974年からは、当番組で「あなたが選ぶ」を放送する時は、真裏のNET→テレビ朝日で渡辺プロ制作特別番組『ちびっこものまね紅白歌合戦』を放送、2局で『紅白』類似企画が放送された(これは1978年まで続く)。
  8. ^ 19:30の『推理クイズ・私がほんもの!』は休止、また19:30から20:00までは『私がほんもの』のロート製薬一社提供(20時以降は当番組の通常スポンサーが提供)したが、ロート製薬のオープニングキャッチは行われなかった。
  9. ^ a b c d e 「500回記念」の時は、徳光は水前寺を「2年務めた」、倍賞を「1年務めた」、岡崎を「4年務めた」と間違えており(今は「3年務めた」とやや異なる)、「週替り」の事は全く言わなかった。
  10. ^ カリキュラマシーン』では徳光が出演し、「50音 段の歌」を発表。
  11. ^ 本番組に全面協力する見返りとして、『スター誕生!』の新人スターを新興の芸能プロダクション(ホリプロサンミュージック田辺エージェンシーなど)に配分したという。
  12. ^ 1975年4月にTBS系列にネットチェンジ
  13. ^ 単発特番としてはその後も継続した。
  14. ^ 1975年9月まではフジテレビ系列とのクロスネット局だったため、それまではこの時間はフジテレビ系水曜21時枠のドラマを遅れネットしていた。
  15. ^ 岡山県でも西日本放送視聴可能地域が多かった。
  16. ^ 1975年10月6日からネット開始。それ以前は時差ネット番組(『オールスター家族対抗歌合戦』など)が途切れ途切れに放送されていた。1979年4月にNNNにも加盟。
  17. ^ 当番組から続いた月曜20時の日本テレビ系同時ネットは2015年3月で取りやめ、同年4月から月曜19・20時台(当時は『ネプリーグ』・『痛快TV スカッとジャパン』が該当。)はフジテレビ系同時ネットに変更された。

出典

  1. ^ 朝日新聞 1964年9月1日 東京版朝刊 P.9 テレビ欄 番組紹介記事(朝日新聞クロスサーチにて閲覧)
  2. ^ 朝日新聞 1964年9月1日 東京版朝刊 P.9 テレビ欄(朝日新聞クロスサーチにて閲覧)
  3. ^ 日本テレビ社史「大衆とともに25年・沿革史」 1978年
  4. ^ 合田道人『紅白歌合戦の真実』
  5. ^ 軍司貞則『ナベプロ帝国の興亡』p.255
  6. ^ a b c d 故・井原高忠 日テレプロデューサーに学ぶ「芸能プロの未来図」”. FRIDAY(2019年8月1日作成). 2019年12月27日閲覧。
  7. ^ 軍司、p.257
  8. ^ 松下治夫『芸能王国渡辺プロの真実。―渡辺晋との軌跡』青志社、2007年7月[要ページ番号]
  9. ^ 福島民報』1975年10月6日付朝刊テレビ欄。
  10. ^ a b 北國新聞』1977年2月7日付朝刊、テレビ欄。






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