1990 FIFAワールドカップ
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1990 FIFAワールドカップ 1990 FIFA World Cup Campionato mondiale di calcio 1990 | |
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大会概要 | |
開催国 | イタリア |
日程 | 1990年6月8日 - 7月8日 |
チーム数 | 24 (5連盟) |
開催地数 | 12 (12都市) |
大会結果 | |
優勝 | 西ドイツ (3回目) |
準優勝 | アルゼンチン |
3位 | イタリア |
4位 | イングランド |
大会統計 | |
試合数 | 52試合 |
ゴール数 |
115点 (1試合平均 2.21点) |
総入場者数 |
2,517,348人 (1試合平均 48,411人) |
得点王 | サルヴァトーレ・スキラッチ(6点) |
最優秀選手 | サルヴァトーレ・スキラッチ |
< 19861994 > |
決勝戦は西ドイツ代表対アルゼンチン代表という2大会連続で同一カードとなったが(これは2022年大会に到るまで唯一の記録)、西ドイツ代表がアルゼンチン代表を1-0と下し3回目のワールドカップタイトルを獲得した[1]。なお、西ドイツは1990年末に東ドイツとの再統一を控えており、西ドイツ代表としてはこれが最後の大会出場となった[2]。チェコスロバキア代表、ユーゴスラビア代表、ソビエト連邦代表も東欧革命の影響により最後の大会出場となった[2]。
平均得点は2.21と最低記録を更新し[1][2][4]、決勝戦における初の退場者を含め当時としては最多記録となる16枚のレッドカードが掲示されたことから、ワールドカップの歴史上において最も退屈な大会とも評されている[5][6]。
一方、開幕戦でカメルーン代表がアルゼンチン代表を下す番狂わせを演じ[1]、アフリカ勢として初めて準々決勝進出を成し遂げる[2]など話題性には事欠くことはなかった[1]。また、大会開催のためにトリノとバーリには新たにスタジアムが建設され、10のスタジアムが改築されるなど設備投資が行われた[1]。この他、約266億9000万人の人々が視聴するなど、テレビ史上において最も注目されたスポーツイベントの一つでもあった[7]。この大会の反省から国際サッカー連盟は1992年、守備側の選手の遅延行為を禁止するためのバックパス・ルールを導入、さらに1994 FIFAワールドカップからは攻撃的サッカーと勝利を追求するため、グループリーグにおいて新たな勝ち点制度を導入した。
開催国選定の経緯
1990年大会の開催国選定は、1983年7月31日にイタリア、イングランド、オーストリア、ギリシャ、ソビエト連邦、西ドイツ、フランス、ユーゴスラビアの8か国が立候補した[8]。その1か月後、イタリア、イングランド、ギリシャ、ソ連を除くすべての国が辞退し[9]、最終投票前の1984年初頭にイングランド、ギリシャが辞退した。
1984年5月19日にスイスのチューリヒで開催されたFIFA理事会での決選投票の結果、イタリアが11票、ソ連が5票という結果となり[10]、1986年大会のメキシコでの開催に続き、1934年大会で開催国を務め優勝をした実績を持つイタリアでの2回目のワールドカップ開催が決まった。この投票結果について、同年にアメリカ合衆国で開催されたロサンゼルスオリンピックに対するソビエト連邦をはじめとした東欧諸国のボイコットが影響を与えたものと推測されたが[11]、FIFAのジョアン・アベランジェ会長はこれを否定した[10]。
予選
予選には116チームが参加を表明したが、出場停止処分や棄権により103チームが参加。開催国のイタリアと前回優勝国のアルゼンチンには自動的に出場権が与えられ、残りの22の出場枠が争われた。ヨーロッパには13枠、南米とアフリカとアジアと北中米カリブ海にはそれぞれ2枠が与えられ、残りは南米とオセアニアとの間でプレーオフにより決定された。最初の試合は1988年4月17日に1989 CONCACAF選手権・トリニダード・トバゴ対ガイアナ戦として行われ、トリニダード・トバゴが4-0と勝利した[12]が、予選最後の試合は1989年11月19日に行われたトリニダード・トバゴ対アメリカ合衆国戦だった[12]。
本予選ではメキシコとチリの2チームが国際サッカー連盟から出場停止処分を受けた。メキシコは1988年に行われたCONCACAF U-20選手権にU-20代表が出場した際に規定年齢以上の4選手を偽って出場させていた事件に対して[13](1988年メキシコサッカー連盟スキャンダル)、チリは南米予選のブラジル戦の際にキーパーのロベルト・ロハスが観客席から投げ込まれた発煙筒により頭部を負傷したと偽り[14]、試合をボイコットした事件(ロハス事件)に対しての処分だった[12]。メキシコは2年間の出場停止処分[13]、チリはロハスの永久追放のほか1994 FIFAワールドカップ・予選への出場停止処分と罰金4万ポンドが科せられた[14]。
コスタリカ、アイルランド、アラブ首長国連邦[12]の3チームが初出場を果たし、長らく大会から遠ざかっていたエジプト(1934年大会以来[12])、アメリカ合衆国(1950年大会以来[12])、コロンビア(1962年大会以来[12])、ルーマニア(1970年大会以来)が本大会出場を果たした。その一方で前回大会において決勝トーナメントに進出したフランス、デンマーク、ポーランド、モロッコなどは予選で敗退した[12][15]。
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