ルクレツィア・ボルジア (オペラ) ルクレツィア・ボルジア (オペラ)の概要

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ルクレツィア・ボルジア (オペラ)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/01/05 07:40 UTC 版)

役柄および初演のキャスト

1833年ミラノ、スカラ座でのキャストは以下の表の通りである。

役柄 初演のキャスト[1]
フェラーラ公アルフォンソ・デステ ルチアーノ・マリアーニ (英語版)
ルクレツィア・ボルジア アンリエット・メリク=ラランド (英語版)
マッフィオ・オルシーニ マリエッタ・ブランヴィラ
ジェンナーロ フランチェスコ・ベドラッチ
ジェッポ・リヴェロット ナポレオーネ・マルコーニ
ドン・アポストロ・ガヅェッラ ジュゼッペ・ヴィザネッティ
アスカニオ・ペトルッティ イスマエーレ・グアイタ
オロフェルノ・ヴィテッロッツォ ジュゼッペ・ヴァスチェッティ
ルスティゲッロ (アルフォンソ公の腹心) ラニエーリ・ポチーニ
グベッタ (ルクレツィアの腹心) ドメニコ・スピアッチ
アストルフォ フランチェスコ・ペトラッツォーニ

タイトルロールを演じたメリク=ラランドは、ベッリーニの『異国の女』のアライデ、『ビアンカとフェルナンド』のビアンカを創唱した、1820年代後半を代表するプリマドンナの一人であった。しかし、この初演時はすでに絶頂期を過ぎていた。作曲者に対しては、第2幕フィナーレに自身のために華々しい幕切れのアリアを書くように要求した。このため、ドニゼッティは当初三重唱で締めくくることにしていた第2幕の幕切れを変更している[2]。その場面で歌われるルクレツィアのカヴァレッタ「この若者は私の息子でした」(Era desso il figlio mio)は、ハイCが何度も登場するオペラ・アリアの中でも難曲の1つとなっている。そのため、ドニゼッティは後に自身の構想したエンディングに合わないという理由から、このアリアを削除した[3]

上演史

ルクレツィアを演じるテレーゼ・ティージェンス
ヴィクトル・ユゴーによる提訴

1833年のイタリア初演の後、ヨーロッパ各都市で上演が行われた。1839年6月6日には、ロンドンハー・マジェスティーズ劇場での初演では、ルクレツィアをジュリア・グリージ、ジェンナーロをジョヴァンニ・マリオ英語版が演じた[4]1840年パリのイタリア座で上演された折には、原作者であるヴィクトル・ユゴーがフランスの著作権法を理由に、作品の上演差し止めを求め提訴した。その際ユゴーは、本作品のイタリア語台本がフランス語に翻訳、出版されたことと上演用の譜面とピアノ・スコアにフランス語の訳詞をつけて出版したこと、そしてこのオペラがパリ以外の地域で上演されたことを問題視した。1841年8月4日に言い渡された判決では、『ルクレツィア・ボルジア』に関するすべての出版物の没収と出版社への罰金1000フランが科せられることになった。判決を受けて、イタリア座では本作品を1845年裏切った女』(La rinegata)と改作し、上演した。その際に、作品の舞台もトルコに移されることになった[5]

19世紀中盤から20世紀初頭まで

本作は、各国語上演版がいくつか存在する。まずは、英語上演版は1843年12月30日に英国人テノールのシムズ・リーヴスがジェンナーロを歌い、ロンドンで上演されている。アメリカでの初演は、1843年5月11日ニューヨークのアメリカン・シアターにおいてである。1847年には、マンハッタンのアスター・オペラハウスで上演され、1854年では同劇場でジュリア・グリーシがルクレツィアを歌った。19世紀において、特筆すべきルクレツィア歌いはテレーゼ・ティージェンス英語版である。彼女は、1849年ハンブルクにおいて初めてこの役を歌っている。また彼女は、1877年にハー・マジェスティーズ劇場で同作品の上演中、ステージの事故によって亡くなっている。19世紀後半から20世紀初頭にかけて、ヴェリズモの流れでドニゼッティを始めとするベルカント・オペラの上演が減少する中でも上演は続けられた。1904年のメトロポリタン歌劇場での上演では、エンリコ・カルーソーがジェンナーロを歌った。20世紀に入っても、定期的に上演が継続されており、1933年4月24日フィレンツェ5月音楽祭での上演がある。

20世紀後半から現在

同作品の再評価が進んだのは、1960年代以降である。特に、1965年カーネギー・ホールでの演奏会形式での上演はスペインソプラノモンセラート・カバリェのアメリカデビューとなった。この上演は、大成功を収め、以後カヴァリェの当たり役の1つとなった。また、カヴァリェのタイトルロールにアルフレード・クラウスのジェンナーロ、シャーリー・ヴァレットのオルシーニで録音も制作されている。カバリェ以外のソプラノでは、レイラ・ジェンチェルビヴァリー・シルズジョーン・サザーランドエディタ・グルベローヴァらがルクレツィアを歌っている。21世紀に入ってからは、マリエラ・デヴィーア、ルネ・フレミングらが積極的に取り上げている。

主な楽曲[6]

プロローグ
  • 1 アリア「リミニの戦いで Nella fatal di Rimini」(オルシーニ)
  • 2 ロマンス「なんと美しい! Com’ e bello!」(ルクレツィア)
  • 3 アリア「卑しい漁師の息子と信じてきたが Di pescatore ignobile esser figliuol credei」(ジェンナーロ)
  • 4 六重唱「シニョーラ、マッフィオ・オルシーニです。あなたに兄弟を殺された Maffio Orsini, signora, son' io cui svenaste il dormente fratello 」(オルシーニ、ジェンナーロ、ルクレツィア、ジェンナーロの友人たち)
第1幕
  • 1 大アリア「来たれ、我が復讐よ Vieni: la mia vendetta」(アルファンソ)
  • 2 二重唱「2人だけになったぞ Soli noi siamo」(アルフォンソ、ルクレツィア)
第2幕
  • 1 乾杯の歌「幸せでいるための秘密 Il segreto per esser felici」(オルシーニ)
  • 2 二重唱「あなたがここに! Tu pur qui」(ルクレツィア、ジェンナーロ)
  • 3 カヴァレッタ「この若者は私の息子でした。 Era desso il figlio mio」(ルクレツィア)

  1. ^ Ashbrook, Le opere, pp. 309-10
  2. ^ Mancini, Roland; Jean-Jacques Rouveroux (1986), Le guide de l'opéra, Paris: Fayard.
  3. ^ Lucrezia Borgia: English National Opera, 31 January 2011
  4. ^ Ashbrook and Hibberd, p. 234
  5. ^ この裁判の経緯については、ヴァルター著・小山田訳『オペラハウスは狂気の館 19世紀オペラの社会史』p297-301に詳述
  6. ^ アルファベット表記、訳は永竹『オペラ名曲百科 上 増補版 イタリア・フランス・スペイン・ブラジル編』p.172-173より
  7. ^ Source for recording information: operadis-opera-discography.org.uk


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