韜光養晦 韜光養晦の概要

韜光養晦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/03/29 09:58 UTC 版)

韜光養晦の言葉のもつ意味

「韜光養晦」という言葉は、中国語の中でありふれた単語ではなく、中国の対外政策を形容するために用いられる以前は、多くの人に聞き慣れないものだった[2]。辞書の中には「韜光」の本来の意味は名声や才覚を覆い隠すこと、「養晦」の本来の意味は隠居すること、二つを併せた「韜晦」も記されているが、一般には、爪を隠し、才能を覆い隠し、時期を待つ戦術を形容するために用いられてきた[2]

1989年前後の中国をめぐる内外情勢

まず、1989年前後の鄧小平の外交路線について見て行く。鄧小平は、改革開放政策を推進し、経済建設を最優先するため、国際共産主義運動の推進と階級闘争を中心とするそれまでの外交政策を転換し、平和的な国際環境の確保を対外政策の基本方針とした[3]。特に1982年からは、全方位外交を打ち出し、時に対立と緊張の当事者となりつつも、概ね各国との平和共存を基調とした外交を展開した[3]。ただし鄧の指導した外交政策から、それ以前の毛沢東時代の外交上の原則が完全に排除されたわけではない[3]帝国主義列強の侵略を受けて半植民地化された記憶が消え去ってはおらず、香港返還や台湾統一あるいはチベット族ウイグル族の民族運動などについて譲るところはなかった[3]。すなわち鄧は、経済建設のための宥和外交と、主権保全のための強硬外交という、時に矛盾し、対立する二大方針のバランスを保持していた[3]。全方位外交は、中国の経済建設にとって大きな役割を果たした[4]。さらには1989年半ばまでに対ソ、対印関係も含め、全般的に良好な対外関係を展開するようになり、それを基礎として経済交流も順調に発展した[4]。しかし、順風満帆に見えた中国外交は、天安門事件の勃発によって最大の危機を迎えた[4]。このとき鄧は、継続しつつあった西側からの制裁や、今後起きるかもしれない攻撃への対応について後継者たちに指示を与えた。[5]「冷静観察、穏住陣脚、沈着応付」(最初に物事を冷静に観察すること。第二に足場をかためること。第三に沈着に対応すること。)と指示した[1][5]。さらに追い打ちをかけるように、ソ連・東欧の脱社会主義化が一気に加速する[4]。中国は、西側諸国からの非難と制裁の的となると同時に東側陣営の崩壊に直面するという孤立状態に陥った[4]1991年には、遂にソ連が解体し、ソビエト共産党が解散するに至った。アメリカも人権、武器輸出、貿易、台湾との関係において厳しい対中政策をとり、鄧の宥和外交に大きな困難をもたらした[4]。これら内外の危機に直面して、中国国内では計画経済論者と左派イデオローグが再び勢いを取り戻した[4]。改革開放政策への批判が再燃し、の中核である政治局常務委員会において、市場経済化という改革の方針に強い疑義が示された[4]。天安門事件からソ連崩壊という困難な時期を通じて、鄧はしばしば「冷静観察、穏住陣脚、沈着応付、有所作為(冷静に観察し、足場を固め、落ち着いて対処し、できることをやれ」」という決まり文句を繰り返した[6]。鄧はアメリカからの様々な圧力に対しても、時に強い反応を示しながら、米中は互いに「信頼を強め、面倒を減らし、協力を発展させ、対抗は行わない」という基本姿勢を崩さなかった[7]。前田後掲書は、この宥和政策を「韜光養晦」政策と捉える[7]

江沢民と胡錦濤政権下の中国外交

中国国外の研究者の多くは、本稿で論ずる「韜光養晦」との鄧小平の有名な格言であるとする[1]。しかし、鄧が実際にそれを口にしたという証拠はない[1]。これらの演説にも、『鄧小平文撰』にも該当箇所は見当たらない[1]。鄧が実際に格言のこの部分を使ったと思われるのは、1992年の名高い「南方視察講話」中で、「目立たないようにしながら(韜光養晦)何年か一生懸命に働けば、国際社会でもっと影響力をもてるようになるだろう。そうして初めて、国際社会で大国になれる」と話している[1]。一般的には鄧小平の言葉とされるこの「韜光養晦」との表現を最初に使ったのは、鄧小平の後任の江沢民党総書記であった[1]。中華人民共和国では、5年に1度世界から大使を集め、駐外使節会議が開かれ、外交の基本方針が示されるが、1999年に開かれた第9回駐外使節会議の場で、江沢民は「冷静観察、穏住陣脚、沈着応対、韜光養晦、有所作為」(冷静に観察し、しっかりと足場を固め、沈着に対処し、能力を隠して力を蓄え、力に応じ少しばかりのことをする)を中国外交の基本方針とした[8]。諸外国においては、「韜光養晦」は「中国が密かに国力を充実させるための青写真」とも受けとられることもあったが、鄧小平や江沢民はむしろ一連の表現で、「国際社会で目立つな」という一大戦略を呼び掛けていたのである[9]。しかし、続く胡錦濤政権下にあって、中国外交に変化がみられるようになった[10]。胡は、総書記就任当初は、協調的な外交方針を掲げており、2004年の第10回駐外使節会議において「平和安定の国際環境、善隣友好の周辺環境、平等互恵の協力環境、友好善意の世論環境」の「四環境」を整備するように呼びかけた[10]。しかし、後に中国の大国化に伴い台頭する対外強硬論に抗しきれなくなった。2009年の第11回駐外使節会議においては、「政治の影響力、経済の競争力、親しいイメージを呼び起こす力、道義による感化力」の「四つの力」を強めるよう呼びかけるようになった[10]。さらに胡は、「韜光養晦、有所作為」という抑制的な外交方針を、「堅持韜光養晦、積極有所作為」(能力を隠して力を蓄えることを堅持するが、より積極的に少しばかりのことをする」と修正した[10]


  1. ^ a b c d e f g シャンボー(2015年)36ページ
  2. ^ a b 張(2009年)187ページ
  3. ^ a b c d e 前田(2014年)102ページ
  4. ^ a b c d e f g h 前田(2014年)103ページ
  5. ^ a b ヴォーゲル(2013年)358ページ
  6. ^ ヴォーゲル(2013年)375ページ
  7. ^ a b c 前田(2014年)104ページ
  8. ^ 清水(2011年)7ページ
  9. ^ a b c d e f g シャンボー(2015年)37ページ
  10. ^ a b c d 清水(2011年)8ページ
  11. ^ a b c d シャンボー(2015年)38ページ
  12. ^ a b c 朝日新聞(2015年9月25日)17面
  13. ^ a b c d e f 新藤(2013年)139ページ
  14. ^ a b c d e f g 清水(2011年)13ページ
  15. ^ a b 新藤(2013年)140ページ
  16. ^ 清水(2011年)14ページ
  17. ^ a b c d 清水(2011年)15ページ
  18. ^ 習近平の力量不足がもたらす新たな権力闘争”. 中央公論 (2013年8月23日). 2019年11月5日閲覧。
  19. ^ “第12期全国人民代表大会第1回会議における習近平氏の演説”. 理論中国. (2013年10月9日). http://jp.theorychina.org/xsqy_2477/201310/t20131009_295047.shtml 2019年11月5日閲覧。 
  20. ^ 中国共产党章程”. 人民網 (2017年10月28日). 2019年11月5日閲覧。
  21. ^ 中国国防費、7.5%増19.8兆円 強軍路線が鮮明に”. 日本経済新聞 (2019年3月5日). 2019年11月5日閲覧。
  22. ^ 中国、富国強兵へ秘策? 「軍民融合委員会」設立 目指すは米の軍産複合体 軍国主義化の懸念も”. 産経ニュース (2017年2月9日). 2019年11月5日閲覧。
  23. ^ 特別リポート:中国習近平の「強軍戦略」、米国の優位脅かす”. ロイター (2019年4月24日). 2019年11月5日閲覧。





英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「韜光養晦」の関連用語

韜光養晦のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



韜光養晦のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの韜光養晦 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS